復活徹夜祭(マコ16:1-7)

主の復活おめでとうございます。今年の聖週間を、イエスの名前をどのように呼ぶかという切り口で考えてきました。今日、その答えが与えられました。私たちは復活の主を、「あの方」とお呼びします。

与えられた朗読の中で、白い長い衣を着た若者は、イエスについて二通りの呼び方を示しました。「十字架につけられたナザレのイエス」と、「あの方」という呼び名です。「十字架につけられたナザレのイエス」とは、イエスに油を塗りに来た婦人たちが理解していたお姿です。

エスが裁判を受け、お亡くなりになるまで、イエスの呼び方はひどいものでした。「お前」とか「あの男」「あの人」こんな呼び方をたしなめる人も、堂々と反論する人もいなかったのです。最後の晩餐で「主よ」と呼びかけたペトロさえも、イエスの死に際して「そんな人は知らない」かかわりを否定しました。人間は命のかかった場面では弱くみじめで、ただじっと、遠くから様子を見守るだけなのです。

勇気ある婦人たちも、墓に出向いたとき「十字架につけられたナザレのイエス」としか呼び名を持ち合わせていませんでした。そこへ、新しい呼び方が示されたのです。それは「あの方」という呼び方でした。

「あの方」「あのお方」こうした呼び方は、明らかに敬意をこめた呼び方です。それは、一緒におられた間も、お亡くなりになっても、イエスが変わらず尊い姿であることを思い出させました。さらに加えて、神の使いであるこの若者は「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と付け加えたのです。墓に眠る人を呼ぶ呼び名はイエスにふさわしくないと知らせたのです。

神の使いは決定的な変化を付け加えます。イエスの呼び方を「十字架につけられたナザレのイエス」から「あの方」に変えてくださっただけでなく、復活して、さらに栄光が増し加えられたと教えてくれたのです。「あの方」と呼んで過去を振り返るだけでなく、「あの方は今生きておられる」と教えてくださったのです。

復活の出来事は、まず墓に出向いた婦人たちに、イエスは「十字架につけられたナザレのイエス」のままでは終わったのではない。人前で話すのもはばかられる呼び方で終わったのではなく、今生きて、「あの方」「あのお方」と呼びかけることができると気づかせたのです。

神の使いは婦人たちに使命を与えました。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16・7)。まだ弟子たちにとって、イエスの呼び名は人前でうっかり語れない呼び方しか持っていません。その弟子たちに、婦人たちが伝えるのです。「イエスは、名前を呼ぶのもはばかられる姿ではなく、復活して、『あの方』と呼ぶことができるのです」と。

弟子たちには、イエスのことを語り合う勇気はまだ育っていませんでした。言葉と行いによって神の国の到来を告げたのに、最後は宗教指導者たちと彼らに動かされた人々によって死に追いやられた人。弟子たちの中ではイエスについて語ることができるのはそこまででした。

けれども婦人たちの報告ですっかり変わります。うかつに名前など呼べない。ましてやイエスのご生涯について語れない。そんな恐怖にとらわれていた弟子たちは一つの呼び方を示されて変わるのです。イエスを「あの方」と呼んで、イエスについて人々に語ることができる。イエスは生きておられ、ガリラヤで会うことができるのです。

私たちの間でも、呼び方が一つ変わるだけで、人と人とのかかわりは大きく変わるものです。結婚している夫婦が、「おいお前」と相手を呼んでいる間は、配偶者は言うことは聞くかもしれませんが、心の底から相手を尊敬することにはならないでしょう。その配偶者は外に出れば、「あの人は」とか「あいつは」とか言っているかもしれません。

呼び方が変わることで、お互いの尊敬や信頼も深まります。私は配偶者がいないのでどう呼ぶのが適当か分かりませんが、花子さんとか何とか、配偶者の名前をいくつになっても呼ぶなら、もっと互いが寄り添う関係であり続けるのではないでしょうか。

復活した主は、ご自身を呼ぶために「あの方」という呼び方を婦人たちと弟子たちにお示しになりました。つまり、尊敬の念をもって、自信に満ちて呼ぶことができる呼び名を授けてくださったのです。私たちはどうでしょうか。生活の中で、イエス・キリストという名前が、呼ぶのもはばかられるのであれば、復活した主は私の中で生きているとは言えません。

むしろ、堂々と「あの方は生きておられる。あのお方はわたしの生活を喜びと希望で満たしておられる」このように言える信者となりましょう。私たちが、イエスを「あの方」と呼んで人々に示すとき、復活した主は確かに今私たちを導いておられるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼主のご復活おめでとうございます。司祭館は一足先に聖金曜日に復活。これは教義のことを言っているのではなく、聖金曜日に復活徹夜祭の説教を書いたので、こう言ってみたのだが、復活の視点から様々な出来事を見直すと、違ったものが見えるかもしれない。
▼「不思議な大漁」という出来事が福音書には収められているが、共観福音書はこれを「漁師を弟子にする」出来事として採用しているが、ヨハネ福音書は復活した主が弟子に現れる一場面として描いている。復活した主の働きとして読み直すと、出来事は違ったことを教えてくれるということの表れだろう。
▼かなり前から気になっていた司祭間の寒さの問題。玄関を開けると夏でも冬でも司祭館内から玄関に向かって風が出ていく。これでは部屋が温まらないと会計さんを通して大工さんを呼んでもらった。大工さんは蚊取り線香の煙が流れるのを見ながら、主な原因を突き止めてくれた。
▼主な原因は、外から司祭間の床に入った空気が、床下から吹き上げて、それが玄関に流れているということだった。百周年の建物ゆえ、廊下など床板は隙間があって、そこからどうやら噴き上げているらしい。合板の床などは問題ないのだが、廊下はたしかに隙間がある。確かめることができたのはまず第一歩だ。
▼復活祭を迎えたのだから、お祝いをしよう。主の名を呼び、大いに喜びあおう。お魚で祝うか、肉で祝うか。賄さんが腕を振るってくれるに違いない。復活祭のごちそうって、なんだ?

† 神に感謝 †