聖木曜日(ヨハ13:1-15)

聖木曜日、主の晩餐を祝います。聖体の秘跡と、聖体を取り扱う司祭職の制定が聖木曜日の中心です。聖体は「与えられたキリスト」の姿を示します。「与えられたキリスト」の姿とはどういうことでしょう。

「与えられたキリスト」と言いましたが、それは権威を示す姿やゆるしをお与えになる姿ではなく、受け身の姿、司祭の手を通して信者に授けられ、ご自分からは動かない姿です。通常ご聖体は司祭によって授けられますが、聖体拝領の列にだれが連なっているか、司祭は完全には把握できません。

ご聖体のイエスは完全に把握しておられても、司祭が間違って授ければその人のもとに授けられていきます。そんな姿にまでへりくだってくださいました。見える形では弟子の足を洗う姿によく表れています。

エスはこう言われました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(13・7)。ここにはもはや言葉では説明できない、へりくだりの姿が示されているのです。

「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(13・2)謙虚さとか、仕える者となるとか、そういう言葉では裏切ろうと考えているイスカリオテのユダの足をイエスが洗う姿は説明できません。

「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(マタイ26・14)。ユダはこう言ってイエスを裏切ったのです。イエスは、最もそば近くにいながら、イエスのことに触れながら金をくれと言う人、金を要求する人の足を洗ったのです。謙虚さとか、仕える者とか、そういったありきたりの言葉を超越したへりくだりがここにはあるのです。

ご聖体は弟子たちの足を洗うこのイエスの姿なのです。だれが裏切り者であるかを完全に把握しているのに、司祭が授けるままになり、仮に司祭が間違った人に授けても、拝領した人の中に留まるのです。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13・15)司祭職は、互いに足を洗いあうことのようです。司祭の判断ミスで、ふさわしくない人にご聖体を授けてしまうかもしれません。イエスのそば近くに仕えていながら「幾らくれますか」と言う人にも、足を洗うために膝をかがめました。司祭も、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」この模範に従うように招かれたのだとあらためて考えました。

裏切る人に膝をかがめるのはどんなに悔しいことでしょう。どんなにみじめなことでしょう。それら人間的な感情を超越して、イエスはへりくだったのです。ご聖体を取り扱う司祭職に招かれた司祭は、生涯、主の晩餐で示された模範を刻みつつ、悩みつつ生きていきます。

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ちょっとひとやすみ
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イエス・キリストをどう呼ぶか。これが今年の聖週間から聖なる三日間までの説教の切り口となっている。ひょっとしたらそれを見抜いておられる読者もいるかもしれない。日曜日にはぼんやりとしたイメージだったが、月曜日にははっきりとそうなった。
▼いろんな具体化の方法があると思うが、頭の中にあることを言葉で言い表そうとしたときに今回の切り口がはっきりした。短い言葉で頭の中にあることを説明しようとしたことで、頭の中にあったことが明確になったのである。
▼多くのカトリック信者は聖週間もそれほど通常の日々と変わりなく暮らしているかもしれない。だが典礼を執り行う司祭は、本当に忙しい一週間である。そうでない司祭もいるかもしれないが、私は説教の切り替えのためにふだんの一週間の何倍も苦労する。
▼いわばそれは、司祭にとっての「死と復活」なのかもしれない。教会の中で一人くらいは「死と復活」をくぐる人がいてもよい。イエスが体験したことを体験して、教会家族に分かち合うのはそれなりに意味がある。だから司祭が、率先して「死と復活」を体験し、分かち合っているわけだ。
▼一週間に五つの説教を準備する。死ぬような思いだ。しかし四回目、五回目の説教は復活の説教である。復活の説教まで準備すれば、司祭も復活できる。毎年、少しずつでも自分なりの「死と復活」を経験して、それを教会全体で分かち合う。こうして教会は豊かになるのかもしれない。

† 神に感謝 †