四旬節第5主日(ヨハ12:20-33)

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12・24)四旬節の最後の日曜日にあたり、イエスがはっきりとご自分の死を意識して語られた言葉に耳を傾けましょう。

使徒ヨハネ田邊徹神父様が亡くなられました。皆さんに大変申し訳なく、お詫びしたいのですが、亡くなられたのは3月5日、鹿児島の郡山司教様によって葬儀ミサが行われたのは3月8日です。今日ですでに10日も経過しています。じつは私が回覧されてきたFAXを見落としたのです。

月曜日は決まってお休みをいただいているので、まったくFAXで緊急連絡が入ることは頭にありませんでした。一か月以上前から、数週にわたって田邊神父様の容態が悪いのでお祈りしてほしいと信徒の皆さんに願っていたところだったのに、こんなことになって大変申し訳なく、心が痛みます。鹿児島の教区本部にはお詫びの手紙を送りましたが、せめて田平教会のほうでも、鹿児島教区の始まりのころから尽力してくださった神父様のために、ミサをささげ、祈りたいと思っています。

今週の朗読で、イエスは次のように言われます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(12・27-28)イエスが「この時のために来たのだ」と言われるのは、「十字架を通して救いの計画を完成される時」のことです。救いの計画が完成されるその時のために、神の計画は人類が罪を犯して救いの状態を失った最初の時から始まっていたのです。

考えてみればわたしたちも、「この時のためにあった」という体験を持っています。私が言うまでもないことですが、お産を間近に控えた女性は、赤ちゃんが産声を上げるその時のために、すべての産みの苦しみをささげるのです。またある人は、だれにも評価されないような地道な研究を積み重ね、ある日人々があっと驚くような、称賛を受けるような成果にたどり着くことがあります。最後にすばらしい結果が待っている人にとっては、「すべてはこの時のためにあったのだ」と、過去を振り返り、神に感謝することができます。

3月17日は中田神父の叙階記念日でした。島本要大司教様から司祭叙階のお恵みを受けました。今年の17日は26年目が始まった日でした。叙階式の時、瞬間的には「これまでの歩みは、この日のためにあったのだ」と思いましたが、司祭生活はここから始まるわけですから、叙階式のその日がゴールではありません。

むしろその日から、イエスが歩んだ「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これと「わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」この両方を胸に刻んで歩き続けることになります。

司祭が一粒の麦として死ぬとはどういうことかと考えることがあります。25年過ぎてみると、結婚しないということが、司祭にとって一粒の麦として死ぬことかなぁと思うようになりました。結婚すると、家族を持ち、子や孫の顔を見ることができたかもしれません。ただ、結婚した夫婦が子や孫の顔を見るといっても、せいぜいそれは十数人、多くても30人くらいではないでしょうか。

司祭は違います。司祭は洗礼を授け、ゆるしの秘跡の恵みを与えます。洗礼は人を神の子として新たに儲けることです。地上での子を儲けませんが、天の国の子を儲けるので、多くの実を結ぶのです。数えたことはありませんが、これまでに百人くらいは洗礼を授けたのではないでしょうか。

ゆるしの秘跡は、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15・32)秘跡です。何年もゆるしの秘跡から遠ざかっていた人が、黙想会などで現れることがあります。洗礼の秘跡と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、多くの実を結ぶ機会ではないかなぁと思います。司祭は一つの生き方である結婚には死にますが、死んだことで、天の国のために多くの実を結ぶのだと思います。

こうした恵みを体験するためには、ある程度の時間が必要です。司祭に叙階されたその日に、百人の洗礼を授けるのは不可能ですし、長らく許しの秘跡から遠ざかっていた人に出会うこともできません。長い時間をかけながら、「一粒の麦は、(中略)死ねば、多くの実を結ぶ。」「わたしはまさにこの時のために来た」これら二つのイエスの言葉に出会うことができるのだと思います。

実際に、「私はこの時のために来た」という時があったか?と問われると、はっきり分かりません。病者の塗油を授けて、死の淵から帰ってきた人を見た時にも「私は司祭になってよかった」と思いましたし、余命宣告を受けたカトリックの妻のために、自分がカトリックになり、カトリックの婚姻の秘跡を受けた時にも「司祭になってよかったなぁ」と思いました。もちろんここ田平教会の献堂百周年記念に、中田藤吉神父様の縁者として赴任していることにも深い喜びを覚えています。

みなさんは、「一粒の麦として死ぬ」「豊かに実を結ぶ」そう確信できる体験をお持ちでしょうか。何かに死ななければ、何かを極めることはできません。何かを極めた時、「いろんなことに死んだけれども、豊かに実を結んだ。私の選んだ道は素晴らしかった」思うことができるでしょう。イエスが先頭に立って歩まれた道は、私たちにも豊かな実りをもたらしてくれる道なのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼百周年の記念誌も、いよいよ大詰めになってきた。大量の文書、写真、目を通すのも大変だが、委員の皆さんがよくやってくれている。ありがたいことだ。この一年で、多くの信徒が教会の節目をより強く感じ、責任も担ってくれた。神の民の成長を見ることができた。
▼数日前に「一粒の麦が死ねば、多くの実を結ぶ」このみことばを何とか伝えられないだろうかと考えていた。何がきっかけで説教案をまとめることができたのか思い出せないが、田平教会に来たから、考えがまとまったのだと思う。「まさにこの時のために、私は来たのである。」
▼黙想会がいよいよ近づいている。説教師はご自分の教会を務め終えたばかりで本当にご苦労だと思う。自分が赴任している教会とはまた雰囲気も違うだろうから、どうか心置きなく話してほしい。私との因縁の話をなさるだろうと予測されるのだが、聞いてみたい気もするし、恐ろしくて聞けない気もする。そこはお手柔らかに。
▼考えられないようなことをすることが最近多くなってきた。この前も、口を開けたままパソコンに向かって眠っていた。服は汚れ、なんとも見苦しい格好になっていた。父親を看取るしばらくの間に、口元を拭いてあげたりしたのを思い出した。格好悪いけれども、いつかは誰かにそんな場面を見られるのだろうし、その時にはお世話になる覚悟も必要だ。
▼多くの実を結ぶ生き方に招かれた。せっかく招かれたのだから、多くの実を結ばなければ責任を問われる。まだ洗礼を受ける可能性のある人は田平小教区にも残っている。その人たちが心を打ち明けてくれるその日のために、人を引き寄せる魅力的な人、人を引き寄せる司祭館であり続けたい。

† 神に感謝 †