四旬節第3主日(ヨハ2:13-25)

四旬節第3主日はしばしば「サマリアの女」という、いのちの水についてイエスサマリア人の女性が対話する場面が読まれますが、典礼の暦がB年の今年は「神殿から商人を追い出す」場面が朗読されました。与えられた朗読に沿って、学びを得ることにしましょう。

3月2日は個人的に楽しみが待っている日でした。3月12日の誕生日ではありません。この日はプロ野球の公式戦チケットの予約販売が開始される日でして、指折り数えて待っておりました。皆さんが「早く暖かくならないかなぁ。春にならないかなぁ」と思うのと同じくらい、待ちに待った日でした。

3月2日のその日は午前10時から発売開始になっていましたので、初金曜日の病人訪問の途中でしたが、病人訪問もそこそこに、スマートホンでチケット予約窓口を開いたわけです。ところがわたしと同じように予約を入れようとする人が殺到して、予約サイトはパンクしていました。

1時間待っても2時間待っても予約に入れませんで、3時間後にようやく窓口が開いたのですが、なんとその時点でほぼすべてのチケットが予約完売していたのです。わたしも周囲があきれるほどのカープファンですが、土曜や日曜は観戦に行けないので、どうしてもその他の日程を探す必要があります。

可能性があるのは振替休日の月曜日か、中学生のけいこを「腹が痛い」と嘘を言って金曜日に行くか、どちらかです。振替休日でしかも本拠地開催は4月30日と9月24日でしたが、なんと9月24日も、チケットはありませんでした。わたしの中で、今年のプロ野球観戦ツアーはこれですべて潰えてしまいました。

かつて慶応大学の学生だった時に後楽園球場付近で「お兄ちゃんチケットあるよ。内野指定席8千円。どう?」と声をかける人たちがいました。たぶん正規のチケットを3倍くらいの値段で売ろうとしていたのを思い出します。

こうなったら、わたしもチケット持たずに本拠地に行って、3倍に吊り上がったチケットを買って球場に入ろうかと思っているところです。4月30日が取れないのは仕方ないとしても、いくらなんでも9月24日がチケット販売開始初日の数時間で完売するというのは困るなぁと思いました。

福音朗読に入りましょう。神殿では牛や羊や鳩を売っていました。両替屋さんもありました。当時の神殿礼拝でどうして牛や羊や鳩が売っていたのか、両替屋さんがあったのか、今回は話を聞くだけではなく、話して聞かせることができるようになってください。

念を押しておきますが、わたしたちはだれもが「宣教者」になる必要があって、この聖堂は話を聞いて、話して聞かせることができるようになるための「宣教の拠点」なのです。「へぇ」と言うだけで、人に話して聞かせることができるよう持ち帰らなければ「絵に描いた餅」になってしまいます。ここで聞いたことのうち1つでも2つでも、話して聞かせることができるようになってください。

そこで神殿礼拝の話ですが、当時の神殿では、いけにえをささげることが礼拝の中心でした。お金持ちは大きな動物を、一般の人は中型の動物を、貧しい人は小さな動物を持ち込んで祭司に渡し、祭司がそれを屠っていけにえにしていたのです。

礼拝にやって来た人々が立ち会えるのは祭司に動物を渡すところまでです。その動物をいけにえにするのは祭司の務めだったので、簡単に言うと礼拝に来た人々は動物を祭司に渡せば、礼拝は終わりで、あとはそれぞれ祈って帰っていたわけです。

動物は自分たちで持ち込むことができました。しかし、いけにえにささげることができるのは傷のない動物でした。いろいろの決まりごとに合格できる動物をだれもが用意できるはずもなく、そこで商売の余地が出てきます。

「いけにえ用に合格した牛はいらんかね〜いけにえ認証マークを受けた羊はいらんかね〜。」「遠方からですか?うちはお隣よりも安くしますよ。隣の値段を聞いてきてください。それより安くで売りますよ。」現状ではそんな甘い誘いが神殿の中で飛び交っていたのでした。

さらに問題をこじらせていたのは神殿専用のお金でした。神殿は特別な場所だから、いけにえの動物を買うためにはユダヤを支配しているローマの貨幣は使えないと言うのです。そこで日常生活で使っているデナリオン銀貨を、神殿専用の貨幣に交換する必要があります。

「お客さん。うちのレートは隣よりも条件がいいから、うちで両替しませんか?今ならお得だよ。」両替商も神殿に巣くって甘い汁を吸っていました。当然イエスは、礼拝に来る人の弱みに付け込んで動物を売り、両替をする商売人たちを一掃しようとしたのです。ここまでの話は、人に話して聞かせることができるでしょうか。ここからは、どんな学びを得るかです。ですから一人ひとり当てはめて、自分の言葉で言う必要があります。

「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2・16)そもそも動物を買い求めて祭司に渡せば、巡礼者が礼拝を果たしたことになるという仕組みそのものを、イエスは神殿から運び出してほしかったのです。この時から、まことの礼拝が始まる。まことの礼拝はイエス・キリストを通して行われるのです。

金曜日に、保育園の主任と一緒に年長さん2人が初聖体の準備をしていました。「日曜日が楽しみですね」とわたしが話しかけたら、「神父さまも日曜日まで元気でいてください」と言われました。イエスさまをいただく子供たちの真心を、受け取ったような感じがしました。神殿で、現代は聖堂で、やり取りされるべきは神さまに対する真心だと思います。

「真心のやり取り。」その最上のものはイエス・キリストです。神さまはわたしたちにイエス・キリストを与えてくださり、わたしたちは御父にイエス・キリストを通して礼拝をささげます。まことの礼拝は「キリストによってキリストとともにキリストのうちに」なのです。キリストがおいでになったことで、まことの礼拝が始まりました。

まことの礼拝に妨げとなるものを運び出しましょう。「イエス・キリストを受け、イエス・キリストを通して真心をおささげする」この原則を不確かなものにしてはいけません。イエス・キリストを受けるための心の部屋は、掃き清められているでしょうか。

この世のものがそこら中に散らかっている部屋ではいけないのです。イエス・キリストを通して御父におささげするわたしの心は、曇りのないものでしょうか。だれかに反感を持ったままだったり、だれかに見られたいという余計な思いが満ちていないでしょうか。

今日初聖体を受ける2名の子供たちをわたしたちは見守ります。イエスさまを全身で受け止め、全身で祈りを父なる神におささげする姿は、「このようなものはここから運び出せ」と言われるイエスに素直に従う姿です。わたしたちも生活の組み立て方を教わりながら、歩んでいきたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼2週連続で金曜日に通夜、土曜日に葬儀ミサとなった。土曜日の葬儀ミサは正直ヘトヘトになる。大司教様も土日はヘトヘトになるくらい忙しいのだろうと思うと、お体が心配である。52歳に間もなくなろうとしているが、大司教様はそれ以上だ。本当にご苦労様である。
▼少し暖かくなってきた。春の兆しは釣りへのお誘いだ。九州では「サクラ鯛」とか「上り鯛」と言ってこの季節を楽しみに待っている。冬の水温低下でじっとしていた鯛が、水温上昇とともに活発になる。「荒食い」とも言われる旺盛な食欲で餌を捉えようとするわけだ。
▼たいていこの時期に鯛釣りを覚えた人は、「鯛は簡単に釣れる魚」と思っている。実際この時期は面白いように釣れるので、そう勘違いしても不思議ではない。だが実際の鯛はかなり警戒心が強く、春に簡単に釣ったから年中簡単に釣れるかというとそうでもないのだ。
▼そういう駆け引きを、ようやくできるようになった。問題は釣りのための「時間と都合」である。時間があっても都合がつかない。今すぐ行きたくても時間がない。なかなか時間と都合が合致しないので、困ったものである。
▼これから送り出す高齢女性の家族に見覚えのあるシスターがいた。なんと滑石教会時代に幼稚園の主任だったシスターである。20年近く時が過ぎて、シスターのお母さんの教会に赴任し、見送ることになった。巡りあわせとは言え何とも不思議なものだ。

† 神に感謝 †