主の公現(マタ2:1-12)

主の公現の主日を迎えました。今年はあとに続く「主の洗礼」が日曜日ではなく、ご公現の翌日に祝われます。主の洗礼について日曜日に学べないので残念です。その分、今週のご公現の中で学びを得て、生活の中で活かすことにしましょう。

金曜日にお見舞いした人の中で、ある年配のご婦人がしきりにわたしのことを「中田藤吉神父さまですか?」と尋ねるものですから、「そうだよ」とつい言ってしまいました。最初は「その中田神父さまじゃなくて、別の中田神父です」と懸命に説明したのですがうまく伝わらず、何度も「中田藤吉神父さまですか?」と言うものですから、説明するのがきつくなって「そうだよ」と言ってしまいました。

ここで問題にしたいのは、わたしが言った「嘘」ではなくて、「その中田神父じゃなくて」の冒頭「その」です。いったい、「その中田神父」とは「どの」「中田神父」なのでしょうか。ご婦人は中田藤吉神父さまから婚姻の秘跡を授けてもらった方でした。ですからご婦人にとっては言葉では言い表せないほどの恩を受けた「中田神父」なのです。

「その」が付いた「中田神父」は、価値が何倍にも跳ね上がる神父さまです。「その」という冠詞が付いただけで、「わたしに婚姻の秘跡を授けてくださった恩人」「田平教会の恩人」「今日また、こうして見舞いに来てくださった恩人」これらの意味をすべて含ませているのです。

それは福音書でも同じことで、たかが冠詞一つなのではなく、場面によっては命を吹き込む決定的な役割を果たすこともあります。今週の福音朗読でこの決定的な役割を果たしている部分は冒頭です。「(その)イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。」(2・1)

「そのイエス」は、「どのイエス」ですか。今日の福音の直前の段落で述べられている「イエスこそ人間を罪から救う方」ということです。福音を書き記したヨハネ、またイエスと出会い、救われた人が共通に持っている思いです。「そのイエス」が、公に現れました。あなたはどのように行動しますか?ということです。

与えられた朗読の中で、「星」と「拝む」が繰り返されていますが、その中で「拝む」という言葉に注目してみました。占星術の学者はこう言います「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2・2)まず言葉で、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みたい、拝もうと思っていると表明しました。

一方ヘロデはこう言っています。「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(2・8)。ヘロデはもちろん本心からこう言っているのではありません。見つけたら殺そうと思っています。彼は本心を偽り、隠し、公にしないのです。

ヘロデとは違って、占星術の学者は、言葉で自分たちの意思を表しただけではなく、態度でも表しました。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(2・11)

救い主が公に現れると、ヘロデは本心を隠し、占星術の学者たちは言葉でも態度でも本心を表しました。わたしたちも態度を求められています。あなたは、公に現れた救い主、公にされた神の救いの計画の前に、本心を隠しますか、それとも本心を表しますか。

もしわたしたちが、星の光によって照らし出された神の救いのしるしの前に、本心を隠してしまうなら、わたしたちはヘロデと同じグループに属することになります。反対にわたしたちが星の光によって照らし出された神の救いのしるしの前に、言葉でも態度でも本心を表すなら、わたしたちは占星術学者の仲間なのです。

わたしたちの態度次第で、わたしたちの人生が変わります。公に現れた救い主を前に、取るべき態度を隠す人は、単にヘロデの仲間であるだけでなく、ヘロデと同様に最後の最後までイエスを知ることなく、照らしを受けることもできません。

そうではなく、公に現れた救い主を前に礼拝をささげるなら、わたしたちは占星術の学者と同じ仲間であるだけでなく、彼らが礼拝後に「ヘロデのところへ帰るな」(2・12)と夢でお告げがあったように、絶えず神の導きのもとに生きることができるのです。公に現れたイエスを前にどのように振る舞うかは、生涯イエスとは誰かを学ぶことなく闇の中を歩くのか、イエスを救い主と受け入れて生涯照らされて生きるのかの分かれ道なのです。

最後に、わたしたちがさらに深く、占星術の学者たちの生き方に学ぶ方法を考えてみましょう。ひょっとすると彼らは、まことの礼拝を一度ささげて責任を果たしたということで、安心して祖国に帰り、それっきりかもしれません。そうではないだろうと思うのですが、彼らにそれ以上の義務はないわけです。

しかしわたしたちは違います。洗礼を受け、堅信によって洗礼の恵みを強めてもらったわたしたちは、占星術の学者たちを超えて今日も、さらに2018年も、言葉と態度で救い主に礼拝をささげます。しかも礼拝を終えて生活に戻ってからも、言葉と態度で救い主に導かれていると表明するのです。公に現れた救い主への信仰を、日の上るところから沈むところまで、隠すことなく生きるのです。

公に現れた救い主を、公に言い表しましょう。言葉と態度で、公にしましょう。わたしたちはこうして、占星術の学者たちを超えて、「あのイエス・キリスト」を宣べ伝えます。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼年賀状が送り返されてきた。「あて所に尋ねあたりません」だそうだ。毎年このような年賀が何枚か発生する。昨年末には「新年のあいさつを控えます」と連絡してきた恩人にはがきを出して、それも返ってきた。家までわかっている住所なのに・・・と思った。
▼これだけ進歩した世の中なのに。こんなちょっとしたことで残念な思いになる。新年早々湿っぽい話だが、どうにかならないものか。今年は返却された年賀状を、問い合わせてもう一度郵便で送ろうと思う。
▼お年玉をあげた侍者たちに、「お年玉たまったか?」と聞いたらほぼ間違いなく「たまった」と返事が来た。そんなにたまるものなのだなぁ。わたしの財布からは5万5千円も飛んで行った。5万5千円分手伝ってくれたからいいのでは?
▼週が明けるとさっそく集まりが3つも4つも5つもやってくる。どれも外せない。5月まで突っ走ることになりそう。本当はあっという間の時間の過ごし方の中に、ゆっくり流れる時間、止まっている時間を置きたいのだが。
▼昨日、教会信徒が亡くなり、力不足を感じ残念な日だった。今日、珍しい人が訪ねてきた。毎日目まぐるしく変わる。変わらない真っ直ぐな軸が、自分の中にあるか。ぶれずに、その軸を保ち続けたいものだ。

† 神に感謝 †