待降節第2主日(マルコ1:1-8)

待降節第2主日と第3主日は洗礼者ヨハネを登場させる朗読が取り上げられています。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者の声」です。声に耳を傾け、声の促すほうに向きを変えるよう努めましょう。

平戸地区ではあまり見かけませんが、かつての太田尾小教区時代や前任地の上五島地区、古くは福岡での大神学生時代に、街頭に出てクリスマス募金の呼びかけをしていました。商店街に出かけたり、大都会の目抜き通りだったり、いろんなところでクリスマス募金の呼びかけをしました。

当時は「荒れ野に叫ぶ者の声」を文字通りに考え、反応がなくても、とにかく声を限りに叫んだことに意味があるのだと思っていました。街頭募金のたびに声がつぶれて、次の日の朝ミサは「ガラガラ声」でのミサでした。

しかし今年は、当時の振り返りも少し違った意味を持っています。当時は振り向かなくても声を出すことで務めは果たせたと思っていましたが、「荒れ野に叫ぶ者の声」は、もっと大切な使命を帯びていたわけですから、当時の考え方は少し足りなかったなぁと思っています。

洗礼者ヨハネ預言者イザヤの言葉を用いて言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(1・23)荒れ野に叫び声が響くだけでは働きは十分ではなくて、叫び声を聞いた人が主に向き直るように働く必要があります。わたしが参加していた「街頭募金」が、街を歩く人々の心に「向き直らないといけないなぁ」と思わせてこそ、働きは完成するわけです。

教会の中で行われる礼拝において、司祭の説教は「荒れ野で叫ぶ者の声」にならなければならないと、常々思っています。ひびきの良いことだけ話したのでは使命を果たせていないし、「ご無理ごもっとも」といちおう聞いてはくれても主に向き直らなければ、これまた使命を果たせません。何とかして、持ち帰ってもらって、生活を主に向き直らせる。その思いだけが毎週の説教を準備させる原動力です。

「荒れ野に叫ぶ者の声」は、洗礼者ヨハネに限ったことでしょうか。洗礼者ヨハネのように、人々の前で語る人だけが、「荒れ野に叫ぶ者の声」なのでしょうか。わたしはもっと、「荒れ野に叫ぶ者の声」を聞いた人は、人々の中に入って、「声」となる使命があるのではないかと思います。

「声」を聞いて、「声」に動かされた人が、誰かに対して「声」となる。そうして、「荒れ野に叫ぶ者の声」は広がり、遠くへ届いていくのです。わたしたちは誰もが、ミサの中でイエスの声を聞いて、その声を人々に届けるための「荒れ野に叫ぶ者の声」になる必要があります。

「声」となるといっても、叫んだりわめいたりする必要はありません。「主に向き直る」その助けをしてあげるなら、十分「声」の働きを果たしています。わたしたちが持ち帰った「声」にだれもが反応してくれるわけではありませんが、少しずつ、わたしたちの声が人々の中で聞き取れるくらいの声になり、はっきり聞こえる声になっていくよう努力したいものです。

一つ原理原則を持っていれば助けになります。それは、「ぶれない」ということ、主に向き直る「声」を曲げないということです。この場面では主に向き直るための「声」の働きをしているが、ある場面では呼びかける人に遠慮して主に向き直る「声」を潜める。それでは「声」として弱いのだと思います。

出来事をどのように受け止め、理解するのか。わたしはこう考えるという姿勢を「声」としてあらわすためには、わたしは一歩近づいて、「声」にならなければならないと思っています。しかし、人より一歩近づいて考えを述べるのは並大抵のことではありません。

それは場合によっては火中の栗を拾うといった勇気が必要です。虎の子を得るために、虎の穴にさらに一歩近づく勇気が必要です。「わたしはカトリック信者だから、いのちをそのはじまりから守ります。」学校の先生も踏み込んで言えないことを、カトリック信者であるわたしたちは信じていることとして「声」で表明する必要があります。

いのちの終わりについても一歩踏み込んで意見を表明する場合があります。新しく始まった裁判員裁判という制度があります。裁判員裁判の多くは重大事件であり、死刑を言い渡すような裁判のケースもあります。しかしカトリック司祭は、人に死刑を言い渡す裁判員の任務に就くことは認められていません。

もちろん社会的には、国が求める任務を拒否することになります。それでもカトリック司祭は人に死刑を言い渡すことは許されないので、一歩踏み込んで、「引き受けることはできない。辞退する」と表明するわけです。場合によっては国の制度に反対してでも、「声」を届けなければなりません。

いのちの始まりについて、いのちを刑罰によって終わらせることについて、人間には権利がないので、「荒れ野で叫ぶ声」になって、主の道である「いのちの始まりと終わりは、神の手の中にある」と、向き直らせる。これはカトリック教会に委ねられた大切な使命だと思います。

わたしたちはこの待降節中特に「主に向き直る」という回心が求められています。ぶれないで「主に向き直る道が唯一の道」ただこの一つの声を、持ち帰って社会に響かせましょう。わたしたちは「声」にすぎませんが、わたしたちの響かせるただ一つの声を、まもなくおいでになる主は「声の持ち主」として具体的に実現させてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼人生一寸先は闇。「闇」を使わずに同じたとえがあればと思うがわたしは知らない。95歳のおじいちゃんの葬式は感覚的に分かる。だが二日後に行われた50歳のお父さんの葬式は理解に苦しむ。わたしよりも年下の人が、なぜ送られていかなければならないのか。
▼12月3日にその電話は入った。Yさんの病者の塗油に来てほしい。出向いてみると、心筋梗塞だったようですでに心臓は止まって、お身体を拭いてあげる段階だった。病院側に説明し、少し時間をもらって病者の塗油を授ける。まだ温かい。
▼家族は先生の説明を聞いている。とても声をかける状況ではなく、その場を離れた。教会のために今後どんな働きをしてくれるだろうかと楽しみだっただけに、残念である。わたしは通夜で、「わたしに面と向かって物言う数少ない人でした。もう一度起き上がって、あれこれ忠告してほしいです」と言った。これがわたしからの弔辞のようなものだ。
▼子供さんはまっすぐに育ったいい子たちだ。この子供たちの成長を近くで見ることができないのだ。わたしは亡くなったお父さんとほぼ同じ歳だから、できるだけ見守って声をかけてあげたい。可能なら、今後の夢をかなえるために力を貸してあげたい。
▼じつはその三日前に、一人のおじいちゃんの病者の塗油を授けている。今必死に一寸先を生き続けている。授けてなかった人が先に旅立った。わたしもまた、一寸先はわからないのだと肝に銘じたい。

† 神に感謝 †