年間第29主日(マタイ22:15-21)

「彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。」(22・19-20)ファリサイ派の人々は、「皇帝への税金」を餌に、イエスを罠にかけようとします。イエスは偽善者たちの罠を打ち破り、本来考えなければならないことに目を向けさせます。イエスの問いかけはわたしたちにも当てはまります。

先週、インフルエンザのシスターの代用教員をしてみて、小学1年生2年生の指導は大変だなぁと思ったと話しました。その続きの話もしておきましょう。3人来ていた子供たちに、イエス様を信じる人々が増えてきたら、「福音を宣べ伝えなさい」「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」という務めは、そのうちに手が足りなくなってくるよね〜どうしたと思いますかという話を最後にしました。一人芝居までして、説明をしたのです。

「イエス様を信じる人が、1万人になったら、遠くに住んでる人のお世話をしに、『行ってきま〜す』と出かけて、3日くらいして『ただいま〜』って帰ってくる。信じる人が5万人くらいになったら『行ってきま〜す』『ただいま〜』って1ヶ月くらい戻ってこれなくて、ずいぶん家を空けてしまうよね。10万人にもなれば、『行ってきま〜す』『ただいま〜』って帰るまでにもしかしたら3ヶ月もかかるかもしれない。そうなったらどうすればいいかなぁ。」

この時わたしが説明したかったのは、「12人の弟子たちだけではお世話が難しくなるので、後を引き継いでくれる『司教様』を国ごとにとか、地方ごとに選んで、イエス様に託された仕事を続けていったんだよ」ということでした。こうして教会が広がっていくのと同時に、地方にも司教様が選ばれてイエス様からの務めは立派に果たされたと言おうとしたのです。

「信じる人が10万人になると、遠くまで務めを果たしに行って、3ヶ月もしてから『ただいま〜』ってなるよね?」と聞きました。すると先週正解を答えに書いていた女の子が自信を持ってこう言ったのです。「大丈夫。留守番できるから。」そうか〜。留守番できるのね。じゃぁ司教様も要らないか。わたしはそれ以上説明できませんでした。こんな小さな子供たちが留守番できるのであれば、立派な大人たちは司祭が250年間戻ってこなくても、留守番できるはずだとも思いました。

さて今週の福音朗読で強調したいのは、「神のものは神に返しなさい」という力強いイエスの返事です。当時パレスチナで流通していた貨幣には、皇帝の肖像が刻まれていました。お金は、いくら貯めていても役に立ちません。お金は使うことで、価値が出てきます。皇帝が要求してきた税金を払うことも、お金を必要に応じて使うことの一つでしょう。

同じように、わたしたちは神のものを神に返す、あるいは神のものを神のために使う必要があります。わたしたち人間には、ローマの貨幣に皇帝の肖像と銘が刻まれていたように神の像が刻まれています。ですからわたしたち自身を神に返す、神のために使う必要があるのです。

神ために自分自身を使う身近な場所は教会です。典礼奉仕はその最たるものでしょう。ただ、皆さんの典礼奉仕を見ていて、せっかくの奉仕がもったいないなぁと感じることが多々あるのです。わたしたちはお金の使い方は少しでも無駄にならないようにと気を遣うのに、自分自身を神さまのために使うことになぜあまり気を遣わないのでしょうか。

たとえば、第一朗読・第二朗読をお願いされた人が朗読台にやってきて朗読をします。よく聞き取れない時がありますね。せっかく自分自身を神さまのために使っているのに、朗読が聞き取れないとか何度も読み間違えて流れが悪いとか、もったいないなぁと思います。共同祈願も、聞き取れないことがあります。自分自身も朗読した聖書が耳で聞いて理解できない、唱えた本人が共同祈願の内容が聞き取れないなら、それは誰のための朗読、誰のための共同祈願なのでしょうか。

祈りの先唱の人は、必ず自分のあとを皆さんが継いで唱えます。そのつもりで先唱する人は、あとを継ぎやすいように間を空けてくださいます。「すべてを造り、治められる神よ」でしっかり止めてくれたら、皆さんはたやすくあとを継ぐことができますが、「すべてを造り、治められる神よいつくしみ深い御手の中で始めるこの集いを祝福し・・・」とやられると、あとを継ごうにも継げないのです。

せっかく奉仕しているのですから、「もったいない」と思わせるような奉仕で終わらないよう、あとひと手間かけてください。マイクが声を届けてくれているか気にするとか、わたしの朗読の声だけで十分意味が伝わっているか気にする。先唱の人は、皆さんがあとをスムーズに継げるように、止めるところはしっかり止める。そういう「あとひと手間」があれば、神さまからいただいたわたし自身を、神さまにお返しする、神さまのために使うことになると思います。

ちなみにイエスは「皇帝のものは皇帝に」とも言われました。皇帝が当時のローマ帝国に及ぼしていたのは政治的な影響力です。わたしたちも目の前に選挙を控えています。衆議院選挙と、平戸市議会議員選挙です。どちらも、よく考えたうえで大切な一票を投じてください。

国政選挙は600億円ものお金が先につぎ込まれています。1人あたり600円くらいです。この600円、選挙に行って1票を投じれば、国民の税金を国民に返すことになるのです。国民の税金が先に使われているのに、投票せず、お金を捨てるようなことは決してしてはいけません。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(22・21)特にカトリック信者であるわたしたちは、自分自身を神さまのために使って、人間に刻まれている神の肖像と銘を曇らせないようにしましょう。いやいや奉仕しても、もったいない使い方にしかなりません。あとひと手間かけて、もっと喜ばれる奉仕にしましょう。人間の権利と義務の上に、神の栄光となるカトリック信者の権利と義務を果たして、人々を驚かせる者となりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼小神学生時代にお世話になった神父様を見送った。通夜、葬儀ミサを終えて長崎教区の聖職者が眠る赤城墓地まで行き、納骨を見届けた。いずれはわたしも眠る予定の場所である。広いとは言えない地下の納骨堂。できれば太陽の降り注ぐ場所に眠りたいが、死んだ後には言われたとおりに納骨されるしかない。
▼年齢を重ねた先輩は、「いずれは・・・」とは思っていないのか、「すぐそちらに行くから」そんな感じで遺影や遺骨に声をかけている司祭もいた。我々とは覚悟が違う。まだ死を身近なものとは思えない我々には、たどり着けない境地だ。
▼11月5日、鯛之浦教会でお世話になる時の説教と、11月12日、生月「黒瀬の辻」殉教祭ミサでの説教が出来上がった。誰と比較することもせず、わたしなりに区切りの説教としたつもりだ。この25周年が終わると、次に目立つのは50周年。まぁ、存在していればの話だ。そして最後は、前述した先輩司祭のように死んだ時だ。
マカオ。有りだな、と思った。海外は基本的に物価が安いから、同じ資金で日本以上のゆとり生活ができるのかもしれない。引退してからは、誰かに義理立てて働く必要もないはず。自分が納得できる生活ができる国を選ぶのも有りかもしれない。
▼そう言えば、最後の語学の勉強として、韓国語を勉強しているのだから、韓国で余生を暮らすというのも考えられる。いくら何でも引退するころには一通り話せるようになっているだろう。身についている予定の言語によっては、海外移住も有りなのかも。

† 神に感謝 †