年間第28主日(マタイ22:1-14)

年間第28主日A年で取り上げられた「婚宴」のたとえは、神の国に多くの人が招かれる可能性があることを教え、同時に本人の責任で放り出される可能性もあると教えます。鍵となるのは、「礼服を着ているかどうか」です。

長崎教区の先輩司祭が一人亡くなりました。わたしや田平教会の同期の方が小神学校時代にお世話になった「阿野武仁」神父様です。小神学生時代、ずっと会計係をしていたので、わたしにとっては会計の神父様という印象でした。

いくつか思い出があります。入学直後に「霊名を言ってみなさい」と質問されて、「ペトロです」と答えました。母親が間違ってわたしに教えていたのですが、阿野神父様が「あなたの霊名は鯛之浦教会の記録によると『トマス』ですよ」と言うのです。忘れもしませんが、わたしはこの時「証拠がないと信じられません」と言ったのです。後になって、この返事の仕方こそわたしの霊名がトマスである証拠だと思いました。

神学校の朝ミサで、ミサ前に黙想の時間があって、それぞれ担当の神父様が黙想の話をしてくれるのですが、阿野神父様は学生の最後尾から話をしていました。前に立って話をすれば神父さまを見ながら話を聞くことができますが、姿がなくて後ろから声だけ聞こえるので、眠たくてよく居眠りしていた覚えがあります。これもあとになって気づくのですが、姿を当てにせず、声だけを頼りに深く黙想するための訓練だったのでしょう。そうとも知らず、いつも眠って申し訳なかったと思います。

神父様はよく拳骨を落とす方でした。規則違反とか、神学校での試験の成績が悪かったとか、何かにつけてたくさんの拳骨をもらいました。高校生になった時、宗教の授業で「少なくとも年に一度、告白すべしとは、いつのことを指していますか?」と聞かれたことがあります。

クラスの全員答えに窮していました。一列目が答えられなくて拳骨一発ずつ、二列目が答えられず拳骨二発ずつ、三列目は三発ずつ、徐々に拳骨の数が増え、わたしの列では六発くらいになっていました。いよいよわたしに質問が回ってきて、苦し紛れに「いつでもいいです」と答えたところ、望み通りの答えだったのか、拳骨が落ちなかったのでした。

おそらく、神学生によって阿野神父様の思い出は両方あると思います。恨みを持っている人もいるでしょう。規則違反で往復ビンタを何発も食らった人もいるわけですが、司祭になった人も、そうでない人も、阿野神父様を通ったことでどんなに鍛えられたかわかりません。神父様になった先輩で、顔が腫れるくらい往復ビンタを食らった神父様が、「当時は恨んでいたけれども、あそこで終わっていたら今はないのだから、感謝している」と言っているのが印象的でした。

わたしは、阿野神父様と小神学校時代、さらに上五島時代と二度関わったので、小神学校時代しか見たことのない人とは違った見方を持っています。たしかに小神学校では鬼のような神父様でしたが、上五島に赴任した時はおじいちゃん神父様で丸くなっていました。

もちろん小神学校時代の記憶はなかなか抜けませんでしたが、それほど極端な人ではなく、別の時代に出会っていたら、付き合える神父様だなという印象を持ちました。晩年はご自分の衰えと、思うように導けない歯がゆさと闘いながらの司牧生活だったと思います。先月だったか、病気療養中だと聞き、わたしはてっきり上五島病院だと思っていましたが、マカオに滞在中体調を崩したようです。

あっと驚く死に場所でした。マカオでお亡くなりになると、だれが想像するでしょうか。詳しいことはわかりませんが、神父様は萩原神父様と一緒にローマで勉強し、ローマで司祭に叙階されています。きっと学友もたくさんいたことでしょう。その中に、親しかった学友がマカオにいたのかもしれません。今はご遺体を引き取りに行っていて、戻ってから通夜と葬儀の日程が決まると聞いています。

阿野武仁神父様の追悼の辞に終始してしまいました。最近長崎教区は司祭の通夜の時に24時間の連続ミサをしなくなりました。かつては30分間隔で徹夜のミサをしていましたので、若い司祭たちにも思い出を語る機会がありました。今は通夜の説教を担当する司祭と、葬儀の説教を担当する司祭しかチャンスがありませんので、せめてこの場で話をさせてもらいたいです。

最終的に二つのことを思いました。一つめは、阿野神父様はおそらく自分の最後が近づいていることを感じていたのでしょう。婚宴に招かれるその日のために、礼服の準備を整えようとマカオに行ったのかなと思いました。もし、学友を訪ねたのであれば、自分の身支度を、学友に手伝ってもらったのかもしれません。そして立派に礼服を着て、王が王子のために用意した祝宴に招かれて行ったのではないでしょうか。

二つめは、阿野神父様の厳しい指導で、礼服を身につけた神学生、司祭、そして司教様もいたということです。わたしたちは誰もが天の国の婚宴に招かれるとき、礼服が必要です。礼服がなければ、善人も悪人も、区別なく放り出されることになるのです。たとえ神学校であっても、善人も悪人もいるのが共同生活です。学生を区別せず、神学生に求められる脇目もふらずに生活する道を厳しく指導した阿野神父様は、出会った学生すべてに、礼服を着せてくれたのではないかと思っています。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちに礼服を着せてくれた人は誰でしょうか。その人に感謝しているでしょうか。また、わたしたち自身は、だれかに礼服を着せるお手伝いをしたでしょうか。

わたしに礼服を着せてくれた人を証言すれば、その人も婚宴に招かれるでしょうし、わたしたちが誰かに礼服を着せてあげれば、わたしたちも招かれます。善人も悪人も、一人残らず、礼服を着て天の国の婚宴にあずかれるように、できるお手伝いをしたいものです。

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ちょっとひとやすみ
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▼あとで聞いた話だが、やはり役割分担というのはあるようで、「校長先生」がおおらかな人であれば、「副校長」は厳しい人と組み合わせて釣り合いが保たれる。阿野神父様は当時の濱崎渡校長がおおらかな人だったので、あえて厳しい役回りを引き受けたのだろう。
▼阿野神父様の居室は1階だった。濱崎校長が2階だったので、そうなるのだと思うが、阿野師が1階にいることで反抗期真っ盛りの神学生にとってはかなり抑制効果があったのだと思う。たとえば規則違反をしようにも、神学校の外に出かけるには1階を通らなければならない。
▼もちろん、わたしたちの時代には豪傑もいて、二階のチャペル脇のドアから夜に無断で外出し、ゲームセンター(?)に行く先輩もいた。何も知らず、中学1年の時に「休憩時間に敷地の外に飛んで行ったサッカーボールを取りに行ってくる」と言われ、無断外出の手引きをしたこともあった。
▼晩年、上五島地区でご一緒した時、「さすが」と唸ったことがあった。地区の神父様たちで中学生の要理テキストの話題になり、どういったテキストを使っているかという話になった。わたしはある先輩のプリント教材を借用していたが、阿野師は「YOUCAT」を使っていると事も無げに答えたのである。
▼「YOUCAT」とは、「Catechism for Youth」という意味で、新たにローマから出された若者向けの要理書だった。当然、新しい教科書は予習復習が必要である。それが面倒で、昔から慣れたものを使い回している自分は、恥ずかしい思いだった。
▼小神学校時代に英語を教えてくれたのを思い出す。発音がアメリカ英語だったかどうかは定かではないが、懐かしい思い出だ。ギラギラ反射するメガネは、ちびまる子ちゃんで登場する学校の先生みたいで、上五島に赴任した時も変わらないメガネだったので思わず笑ってしまった。

† 神に感謝 †