年間第21主日(マタイ16:13-20)

「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(16・19)これまでよく見えてなかった部分に照らしを感じましたので、ペトロに託されたこの「天の国の鍵」について考えてみたいと思います。

先週、前半と後半でお休みをいただきましたが、前半は平戸地区の司祭5人で、大分と熊本を巡ってきました。大分では浜口司教さまを表敬訪問し食事をご一緒させてもらいました。熊本では長崎教区からの司祭2人に会って食事をして元気づけてきました。

平戸地区に8人の司祭がおります。地区長神父さまから「夏休み中に一緒に出かけませんか」と誘われて、日程の折り合いがついたのが5人でした。出かけてみて分かったのですが、わたし以外は簡単に言うと「温泉好きの神父さま」でした。

初日、黒川温泉の何とかと言う露天風呂に行き、2日目は阿蘇の何とか温泉に行きました。帰りの3日目も阿蘇の温泉に行きかったようですが、2つの教会で葬式が入り、朝8時からまっすぐ帰りました。わたしは温泉に入っても構いませんが、温泉に入らなければ悔いが残るという人間ではないので、お付き合いで参加したということです。

ただ、温泉の名前とお土産で聞き捨てならない物があると知りました。「はげの湯温泉」という温泉があって、そこの旅館のお土産で「せんべい」と「ソーダ」が有名なのだそうです。名前が傑作なのです。「はげませんべい」と「はげソーダ」と言うのです。もう禿げているわたしは、大変興味深いお土産だと思いました。今度先輩方と旅行した時は、はげの湯温泉旅館に行ってみたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。イエスはペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃいました。鍵は大切なものです。最近わたしにとっての鍵は、「閉めるためのもの」ではなく、「開くためのもの」という思いが強くなってきています。

旅行に出かけて、旅先の宿で鍵を預かった時、その鍵は開くためのもののはずです。最近の部屋は、オートロックなので、勝手に閉まります。部屋に鍵を置いたままロックがかかり、フロントに迷惑をかける経験をした人もこの中にはいるでしょう。

また、スマートフォンという種類の携帯電話をお持ちの方は、暗証番号や指紋認証で鍵を開けて使用するのを体験しているでしょう。基本的にスマートフォンは、他人に勝手に使われたりしないようにロックがかかっているのです。ここでも暗号や指紋は開くため、使用を可能にするために使います。

ペトロに託された「開くための鍵」とは何でしょうか。「閉じるための鍵」ではなく、「開くための鍵」。わたしは思い切って「それはイエス・キリストである」と考えてみました。イエスこそ、地上で罪につながれていた多くの人を解き放ち、復活して天の国の門を開いてくださったからです。

ほかにも、救いから遠ざけられているとされていた異邦人にも扉を開き、心を頑なにする律法学者たちにさえ、警告の言葉をもって解放の道を示されたのです。「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」(ルカ11・52)。このイエス・キリストをペトロは「天の国の鍵」として預かったのではないでしょうか。

加えて、鍵を預かる人はそれにふさわしい責任を求められます。開け閉めして中にあるものを出し入れしたり管理します。ペトロにも責任が伴います。イエス・キリストという鍵は、すべての人に天の国を開く鍵ですが、それはこの世が望むような権力と結びつく鍵ではありません。十字架に死に、復活して扉を開く鍵です。

当然この鍵を預かるペトロも、権力が天の国を開く鍵なのではなく、十字架上に死に、神によって復活させられる道が天の国を開く鍵であると理解しなければなりません。イエスはペトロが理解に達することができると信じて、天の国の鍵を授けたのです。今は理解できないとしても、ペトロの生涯全体をかけて天の国の鍵がどのようなものであるかを理解し、管理者となっていきます。

天の国の鍵を授けられたペトロは、これから天の国を開く鍵となる生き方を歩みます。それはイエスに倣う生き方です。12使徒の中でいちばん素朴で真っ直ぐなペトロが、教会の先頭に立って、教会が歩いていくべき道、十字架を背負って、復活を信じて生きる道を歩みます。

わたしたちの未来も、ここに描かれています。天の国の鍵を授けられたペトロと一つになって、この世を生きる必要があります。同じ生き方を人々に示すことで、わたしたちの知る天の国の鍵はこのような生き方ですと、証をします。

この世を謳歌するような生き方ではないかもしれません。けれども、天の国の鍵を見失う生き方よりも優れています。わたしたちが自分の生き方で天の国の鍵を保って生きることが大事だと知らせるなら、すべての人に対してわたしたちが鍵を握っている人間となれるのではないでしょうか。

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ちょっとひとやすみ
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▼あー気が付いたら901号になっていた。900号もあと少し、と言っていた時には明確に意識していたのに、いざとなったら単なる通過点だった。次の区切りは1000号。あと2年くらいある。1000号はさすがに盛り上げて迎えたいものだ。
▼最近体の老化を実感することが多々ある。物を取り損ねて落とす。パソコンのキーボード入力で思うように指が動かない。連続したキーボード動作(半角72文字で改行し、メルマガ配信のための体裁に整える作業。100回くらい改行を入れる)。
▼メルマガ配信のための連続したキーボード操作は、機械的な作業なので、頭と手先の操作との連動が重要だ。半角72文字で改行。改行すると先頭にカーソルが移動するので「←キー」を押してカーソルを半角72文字の場所に戻す。
▼また改行。また戻す。場合によって半角74文字の場所が句読点ということがあるのでその場合は半角72文字ではなく74文字で改行。また72文字の場所に戻って改行。この一連の動作は3年前4年前は機械的に指先を動かせたのだが、今は作業速度を上げようとすると失敗する。
▼「改行・半角72文字の場所に戻る」の繰り返しなのに、速度を上げようとすると戻す動作が追い付かず、「改行さらに改行」となったりする。すると自分のミスに苛立ち、血圧が上がる。
▼この頃は速度を少し落とし、その分を頭の回転で補っている。頭を使わなくてよかった部分で頭を使うようになったので、メルマガ配信が終わると疲れてしまい、机にうつぶせになるか、畳に大の字になる。しばらく動けない。この繰り返し。
▼速度を落とさざるを得ないもどかしさ。これが老化との付き合いなのか。自分の現状と向き合いながら、これからまた1000号、その先の号へと進んでいく。

† 神に感謝 †