主の変容(マタイ17:1-9)

暑さもピークを迎えているこの時期に、「主の変容」の祝日を迎えるのは、厳しい夏を乗り越えるための神さまからのプレゼントのように思えます。気力も萎えてしまうような場面をどのように乗り越えたらよいのか、学びを得ることにしましょう。

近況報告です。先週の日曜日、所用で二番ミサ後にすぐ出ましたが、帰りは夜中でした。あまりの眠さに佐々のインターを降りて、いったん左折してコンビニに入り、栄養ドリンクを買って飲みました。

その後道路に復帰し、十字路を江迎方面にエレナに沿って左折しました。黄色の信号を構わず左折した途端、対向車線にパトカーが見えました。ビックリして、ドリンクを飲まなくても済むくらい目が覚めました。「これで免停になったか」と肝を冷やしました。しかしパトカーはわたしには目もくれず、左折して佐々の町中に消えていきました。少しは涼しく感じたでしょうか。

暑いので、涼しくなるような話を考えてみました。「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」(17・3)いったい何を語り合っていたのでしょうか。ルカ福音書による並行箇所を読み比べると、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9・31)と説明されていますから、十字架上で成し遂げられる救いのわざについて語っていたと思われます。

さらに、今週の朗読箇所に「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」(17・8)とあります。ですから、モーセが語ったこと、エリヤが語ったことを踏まえた上でも、イエスが語られた内容が最も優れていた。イエスの語った内容こそ「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)という雲の中から聞こえた御父の声にふさわしい内容なのだと思います。

すると、いよいよイエスが何を語られたのかが大事になります。こんなことを考えてみました。モーセは、モーセ五書とか十戒とか、掟と法に関わる人物です。ですから、「人間の救い」について、「掟と法に従って裁くべきです」とイエスに進言したということはあり得ます。モーセは、まだイエスが示す愛とゆるしを見ていないからです。

次にエリヤは、聖書の中では「バアル神の預言者と対決し、偽りの預言者すべてを剣にかけて殺した神の預言者」「炎の車に乗って神のもとへ運ばれた預言者」そういうイメージです。つまりエリヤが正しい人と不正な人や邪悪な人の間を裁くとすれば、「剣をもって正邪を裁くべきです」とイエスに進言するということがあり得ます。エリヤもまた、イエスが示す愛とゆるしを見ていないからです。

そんな中でイエスは、ご自身がどのようにして人間を裁き、救われるかを説明しておられたのではないでしょうか。つまりイエスは、「溢れるほどの愛、これ以上ないほどのゆるし」をもって人間を裁き、救われるのです。モーセも、エリヤも、イエスの計画の前に身をかがめ、残っていたのはイエスのほかにはだれもいなかったのでしょう。

裁きの座に上がる人を想像してみましょう。表に立つ人たちがいます。政治や教育、文化や科学、宗教、そういった場所で人の前に立つ人たちです。こうした人々が裁かれるとき、モーセは法に従って裁くでしょう。エリヤは彼らの行動に裏表がないか、表では正しい道を説き、裏では悪に手を染めていないか、剣をもって見分けるでしょう。イエスは、彼らの心に語り掛けて、任せられている務めを誠実に果たすよう辛抱強く導き、その後に裁くでしょう。

表には立ちませんが、人々から視線を浴びる人たちもいるでしょう。イエスの時代であれば徴税人や娼婦や、金持ちなどです。事情は様々ですが、モーセもエリヤも、これらの人々を罪に定めることができるでしょう。ひょっとしたら、この人たちを救うのは難しいと判決を下すかもしれません。しかしイエスは、モーセもエリヤも示すことのできなかった愛と赦しで、これらの人々に救いの道を示すのです。

「この人には責任がある。」裁きの座に就く人は、責任を追及すればどんな人間も責任を逃れられないでしょう。父親としての責任、母親としての責任、社会人として、学生として、だれもが何らかの責任を任せられていて、残念ながら責任を果たせなかった場面があるかもしれません。

法に従って、剣にかけて過ちが明らかであっても、しかしイエスは最後にわたしたちを救うために裁きの座に就いておられます。ぞっとするような過ちの数々、並べられた訴えの数々。本当は救われないのかもしれません。ですがそこにイエスがおられるとき、「あなたがたの罪はゆるされた」「安心しなさい」という言葉をかけてもらえるのです。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)。ただ一人残っているのが法に従って裁くモーセだったらどうでしょう。剣にかけて正邪を裁くエリヤだったらどうなっていたでしょう。しかし父なる神は、わたしたちに最後に示されたのはイエス・キリストだったのです。

これは何を意味しているのでしょうか。わたしたちに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言っているのは明らかです。法に基づいて裁くこともできますし、正義の剣にかけることも可能でしょう。しかしわたしたちが出会う人に示すべきなのは、イエス・キリストがわたしたちに示された「愛とゆるし」なのです。

もし、雲の中で現れた三人が、「中田神父は法に従って有罪です」「中田神父は裏では悪を行っているので剣にかけましょう」そういう相談をしているとしたら、きっとわたしはひとたまりもありません。けれどもそこに、イエス・キリストがおられるので、わたしは憐れみを受ける可能性があります。そう思って、今回は雲の中に現れたお三方を思い描いてみました。

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ちょっとひとやすみ
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▼病人訪問を月に一度のペースで実施している。その中に106歳のおばあちゃんがいて、すばらしいことに訪ねて行った時はいつも起きていてちゃんと祈りをして聖体拝領を受けている。健康状態も申し分なく、今のところは来月も会えると思っている。
▼聖体拝領のための式文は、おおよそミサの内容を要約したもので、「招き」「回心」「聖書朗読」「主の祈り」「聖体拝領」「拝領後の祈願」で成り立っている。ミサにあずかることができない病人のための、母なる教会の配慮なのだと思う。
▼そのおばあちゃんも、毎回主の祈りを聖体拝領前に唱える。8月4日(金)のお見舞いの時、いっしょに主の祈りを唱えながら、何かがわたしに降ってきた。この日のおばあちゃんとの祈りをわたしは決して忘れない。実際にその時感じたことをスマホにメモを取り、いつでも体験談として話せるようにまとめてみた。
▼聖職者がこんなことをいうのもなんだが、神は存在すると思う。わたしが106歳のおばあちゃんといっしょに祈って、何かのひらめきが降ってくるのは、わたしが超能力者だからではない。わたしが超能力者なのだとしたら、とっくに新しい宗教を作っている。
▼そうではなく、わたしを照らし、導く神が、わたしのひらめきではないれっきとした神が、存在すると感じさせるのだ。わたしが作り出した神であれば、わたしの思った時にいつでも呼び出すことができるだろう。
▼しかし、わたしが体験したのは、まことの神が、みずからわたしに思わぬタイミングで語り掛け、何かを教えてくれるということだった。主の祈りは珍しいことではない。106歳のおばあちゃんと主の祈りを唱えたのも今回が初めてではない。だが照らされて何かが降ってきたのは今回が初めてなのである。
▼神の働きに謙虚に耳を傾けたり、神の存在に謙虚に跪く。その心構えを決して忘れてはいけない。神が何かを教えてくださるその日、その時を、わたしたち人間は指定できないのだから。

† 神に感謝 †