年間第19主日(マタイ14:22-33)

今週の福音朗読は、「湖の上を歩く」というイエスの超人的なしぐさが取り上げられています。物語の中には、イエスが湖の上を歩くこと以上に大切なことが含まれています。そうでなければ、イエスが湖の上を歩く超人である、ただそれだけの物語です。イエスがもっと大切なこととしてわたしたちに示す教えを見落とさないようにしましょう。

近況報告です。8月2日のナイターソフトで調子に乗りすぎて手首を痛めてしまいました。ヒットを打ったのですが、それをどうしても二塁打にしたくて、無理やり二塁まで走ったわけです。

一塁コーチャーの「えー?二塁に行くわけ?」という声が聞こえる中、滑り込みの仕方も知らないくせに思い切り地面に手をついて滑り、左手首をくじいてしまいました。手の皮もすりむき、手のひらに血がにじむほどでした。

試合中はそこまで痛みはなかったのですが、次の日の朝ミサをささげていると、左手でパンと杯の器を持ち上げることができません。聖体拝領のあいだも痛いのをがまんして器を持ち、あやうく聖体の入ったチボリウムを落としそうになりました。

何も持てなかったわけではありません。司祭が拝領する大きなご聖体は持つことができましたが、その聖体を載せるパテナというお皿が重たくて持てません。100gとか200gとか、たかが知れた重さなのにです。

ミサ後、どれくらいまでなら持つことができるかお札で試してみました。1万円は持つことができました。10万円も大丈夫でした。しかし50万円になると重く感じ、100万円は持ち上げられませんでした。

およそ二週間、日常生活に支障をきたしました。これが全治二週間のけがかと、初めて体験しました。今も薄皮をめくるようにしか回復しません。重い物が持てないと嘆く人たちの気持ちがよく分かりました。

何より、わたしがけがをするとどれだけの人に迷惑をかけるか分かりました。ナイターソフトもほどほどにプレーしようと思います。でも本番になったらどうなるかは分かりません。

福音朗読に戻りましょう。場面を整理すると次のようになります。まずイエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせました。弟子たちの乗った舟は逆風のため波に悩まされはじめます。そこへイエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。ここからが大事だと思うのですが、イエスと、ペトロに手を伸ばして捕らえられたペトロとが舟に乗り込むと、風は静まったということです。

始めと終わりだけをつなぐとこうなります。「逆風のため波に悩まされていた弟子たちは、イエスが舟に乗り込むと風が静まったのを見た。」あとのことは物語を補強しているのです。イエスが水の上を歩いて弟子たちのところに行きますが、復活したイエスは弟子たちが戸を閉め、鍵をかけていた家の中に入って来られました。ですからイエスをことさら超能力者と見る必要はありません。イエスは神の子だからです。

ペトロは「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(14・28)と言ったけれども強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」(14・30)と叫びました。わたしたちも決めたことを実行しようとして、怖気づくことがあります。湖の上でのペトロの心境が語られているのです。

この物語で最も大切だと思っていることは、イエスが恐れに捕らえられている弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14・27)と呼びかけている部分です。人が恐れに捕らえられ、パニックになっている。その時イエスは近づいて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけ、恐れを取り除いてくださるのです。

だれもが、恐れに捕らえられ、パニックになることがあり得ます。日曜日9時のミサでは、洗礼式が予定されていますが、命がこの世に誕生するその瞬間まで、心配でたまらないという経験をしたかもしれません。生まれてからも、この子が元気に育ってくれるだろうかと、心配は絶えないかもしれません。

わたしはこう思います。イエスはこの子に洗礼の機会を授けてくださいました。神が親子に近づいてきてくださり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださっているのです。「この子が元気に育つように、わたしは人生の初めから生涯にわたって、この子に恵みとなりましょう。」イエスはそのように呼びかけているのです。

福音朗読の湖の上での出来事を、わたしはこう考えます。人間的にはすぐに助けに行くことのできない場所、助けを求めても、すぐには駆け寄ることのできない状態です。そんな状況にあっても、イエスはすぐに駆け寄ってくださり、わたしたちを救い出してくださるのです。

わたしたちが神の恵みにあずかろうと教会に来るのは、恵みを期待しているだけではなく、人々に対する証でもあります。人間的には、すぐに助けに行くことのできない場所、助けを求めても、すぐには駆け寄ることのできない状態にあっても神はわたしを助けてくださる。教会に集うわたしたちは、そのことを人々の前で宣言しているのです。

エスは、沈みかけそうになっているわたしに手を差し伸べ、救い出してくださいます。神さまの差し出す手が、短くて届かないということがあるでしょうか。決してあり得ません。わたしたちはそのことを少しも疑いませんと、あらためて表明しましょう。神は遅れることなくわたしたちに手を差し伸べ、恵みを与えてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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夏の甲子園が始まった。照り付ける日差しの中で白球を追う球児の全力プレーを、おじさんとなったわたしはエアコンの効いた部屋で観戦している。歳を取ったものだ。四日目の組み合わせは豪華な顔ぶれで、広島広陵中京大中京を破り、熊本秀岳館横浜高校を破った。第三試合第四試合も楽しみだ。
▼ところで第三試合に組まれた沖縄興南と対戦する智弁和歌山高嶋仁監督について、思わず身を乗り出すような情報を見た。なんと高嶋監督は五島出身だったのである。目を疑った。そのほかの情報はネットを調べれば大体のことはわかるので割愛するが、五島出身のわたしにはちょっとした自慢が増えた。
▼興味があったので、タブレット端末を購入した。タブレット端末を大きく分けると、iPadかそうでないか、ということになる。iPadは新しさはないので、「そうでないほう」つまりAndroid端末を購入した。
▼使い始めは、すぐ立ち上がるし想定内の仕事ができているし、大変重宝していたのだが、二週間もすると態度が豹変した。日本語入力ができなくなり、いきなり両手を縛られたような状態になったのである。
▼生まれて初めて、「音声」でさまざまな機能を動かした。なかなか優秀、と思ったのもつかの間、ログインが必要なサイトに入るときにパスワードを音声で入力するのは超絶技巧が必要だった。最終的にこのパスワード入力で音声入力を断念することになる。
▼音声で入力できない文字があって、絶望的になった。何度言い直しても「t」を「d」としか認識してくれない。気が短いわたしは買って2週間もしないタブレットを破壊しようと何度思ったことか。
▼初めのころはできていたキーボード入力がタブレット端末で使用不可になった原因をパソコンからネットで検索する。あまり芳しい答えが見つからない中、「google日本語を入力すべし」という結論にたどり着いた。腹立たしい答えだったが、このアプリを入力した途端、ウソのように問題が解決した。

† 神に感謝 †