年間第17主日(マタイ13:44-52)

「天の国は次のようにたとえられる。」年間の主日もおよそ半分を過ぎました。イエスは天の国を三通りにたとえて説明なさいました。畑に隠された宝、商人が探しまわる高価な真珠、網にかかった魚から良いものを選り分ける。この三通りのたとえはさまざまなことを連想させます。一人ひとりにしっくり当てはまる受けとめ方を見いだしましょう。

転勤してきて、鉄道に関係する違反で二度警察のお世話になりました。北松中央病院手前の高架を間違って右折した時と、ナフコ前の踏切一時停止を怠った時です。ナフコ前の違反は9千円と2点減点です。

五島という、線路のない土地に6年も住んで浦島太郎状態になっている司祭を、なぜ呼び止めるのでしょうか。それとスータンを着ている時は遠慮してほしいです。9千円は痛いので、「必要経費」と言い張って教会の通帳から支払おうと思っています。お父さんウソだよ。

さて今週のたとえに戻りますが、三つのたとえは広がりを感じさせるたとえだと思います。ただ単に、埋もれている宝、良い真珠、網でとらえた魚だけではなさそうです。大地と湖、そしてそこでやり取りされる品物で世界全体を表していると考えられます。「天の国」を学ぶ材料は、この世界のあらゆる場所にあるということです。

ほかにも、たとえは三つの暮らし方をしている人でもあります。初めの人は、畑は耕すが、畑の所有者ではない人です。畑の所有者であれば、畑を買い取ったりはしません。この人は小作人で、人に使われて一生を終えるはずだったのに宝物を探し当てたのです。商人はみずから生計を立てる人で、取引の中で高価な真珠を探し当てる力を発揮した人です。網にかかった魚をより分ける人たちは、平凡な作業を繰り返していても、良いものを見逃さない人たちと言えるでしょう。ここでは「天の国」について、あらゆる人に学ぶ機会が与えられるのだと分かります。

もともと「天の国」は隠された宝であり、掘り当てたなら、あらゆる努力を払って手に入れる価値があります。「天の国」は価値を知っている人だけが見つける宝であり、価値の分からない人には「猫に小判」なのだから、「天の国」の価値を見抜く力が必要になってきます。

また「天の国」は区別が必要な宝なので、見かけや、目の前だけの楽しみなどに惑わされず、正しく見分けなければなりません。ニラは食べることができますが、ニラとよく似たスイセンの葉は食べると食中毒を起こします。正しく見分けることができなければ命にかかわるのです。

エスが示した三つのたとえは、「畑に隠された宝」「高価な真珠」「より分けられた魚」というだけではなく、広がりを持っていると思います。ここまでいくつかの取り上げ方をしましたが、皆さんが受け入れやすい取り上げ方は見つかったでしょうか。

さてわたしはもっと大胆に、「天の国につながる宝」を一つ示したいと思います。それは「祈り」です。祈りのいくつかの特徴が、今週の「天の国」のたとえに表現されていると思います。

まず祈りは「掘り下げていくとそのすばらしさが分かる宝」です。毎日祈りを唱えていても、祈りの言葉の持つ意味をあらためて考えることは少ないかもしれません。アヴィラ聖テレジアは、「主の祈り」をテーマにして一冊の本を残しました。わたしもこの聖人の残した本を通して、「主の祈り」という畑に隠された宝を掘り当てました。

また祈りは、持ち物すべてと交換しても惜しくない「高価な真珠」です。ベトナム人のトゥアン枢機卿を紹介します。彼は25歳で司祭に叙階され、39歳ですでに司教に選ばれ、47歳で大司教になりましたが、ベトナム政府は彼を危険人物と決めつけます。不当逮捕され、13年間獄中生活を強いられました。

すべてのものを没収されましたが、彼はパンとぶどう酒の差し入れだけでミサをささげ、祈りから受けた照らしで獄中から面会人に小さなメモを渡し、教区民を導く言葉を与え続けたのでした。

トゥアン枢機卿はすべてを失いましたが、祈りからすべてを手に入れたのでした。すべてを失ってもすべてを得ることができる「祈り」。持ち物すべてと交換しても惜しくないものが他に考えられるでしょうか。

さらに祈りは「良いものと悪いものを選り分ける篩(ふるい)」のようなものです。福者に上げられたユスト高山右近は、難しい決断をしなければならないとき必ず祈って答えを尋ね求めました。ある時右近の上司である荒木村重は天下人織田信長に謀反を企てます。

右近はどちらかに忠誠を誓わなければなりません。彼は祈って、「より上位のかたに仕える」決断をしました。最後は、この世を支配する天下人より上位におられる天の父に仕える道を歩んだのでした。

このように、「祈り」は今週朗読されたイエスの三通りのたとえをうまく表現していると思います。もっと言うと、長崎教区民がこれから畑に隠された宝を見いだし、高価な真珠を手に入れ、良いものと悪いものを区別できるようになるためには、徹底して「祈り」を鍛え上げることが必要だと、心底思っています。

子供の時代、わたしたちは祈祷書のいくつかの祈りを暗記していました。ロザリオに続けて唱える「元后あわれみ深き御母」などは、だれもが暗記していたはずです。今の子供たちに祈祷書なしで唱えてごらんと言ってもまず言えません。今と昔では鍛えられかたが全然違うのです。

わたしは「祈りの道場」という場を設けて、数日間缶詰めになって祈りを覚える道場を開きたいと思うことがあります。道場を去る頃には、朝晩の祈りやロザリオ、十字架の道行きなどの先唱を率先してできる。そんな弟子を長崎教区に送り出したい。わたしのこの十年来の夢です。

わたしはすでに「天の国の幸い」を予感できるだけの宝を手に入れているでしょうか。「天の国のことを学んだ学者」でしょうか。頭でっかちの学者でなく、畑に隠された宝を語れる学者が、田平教会に、長崎教区に、現れてほしいのです。「天の国のことを学んだ学者」がいれば、あちこちで人々に天の国のすばらしさが語られることでしょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼7月31日雲仙で召命フェスティバルが開催され、十数名の子供たちを連れていくことにしている。2年に1回開かれていて、「言ってみれば」まったく同じことをしているだけである。ところが。
▼この召命フェスティバルは毎回盛況で、わたしが圧倒されるのは召命祈願ミサに持ち寄ってささげる献金である。記憶ははっきりしないが100万円とか相当な金額が報告されていた。
▼「言わば」毎年同じことを、同じようにしているのに、なぜ子供たちを惹きつけるのだろうか。プログラムに「靴飛ばし大会」があり、何の変哲もなく、毎回全く変わらない。ほかにも「ジャンケンコーナー」があり、「ジャンケンマン」と称するヒーロー戦隊まがいの若手司祭が登場するが、この人物も一度も変わったことがない。
▼それなのに、である。それなのに、いつも熱狂して子供たちがプログラムに参加する。わたしはここではたと思うのだが、この「召命フェスティバル」を企画している教区召命委員会(だったと思う)は、「高価な真珠」を見つけ、そこにすべてを注力しているのだ。
▼同じことを繰り返せば、ふつう子供たちは飽きてしまう。それがそうはならない。何か、子供たちに訴えかけるものを畑から掘り出し、手に入れているに違いない。だから子供たちをあそこまで熱狂させることができるのだろう。
▼要は、畑に隠されている宝を当てることである。いつ巡ってくるか分からない高価な真珠を見逃さないことである。どれが良いもので、どれが捨てるべきものかを瞬時に見分けることである。召命フェスティバルのプログラムは、本物を捉えているのだと感じた。

† 神に感謝 †