年間第16主日(マタイ13:24-43)

年間第16主日は先週の「種をまく人のたとえ」と結びつけて考えてよいと思います。イエスによってまかれた種は実を結ぶ。しかも、実を結ぶことに何の疑いもない。先週と合わせて、このように今週の朗読を読み解くことができます。

2週間ほど前に、郷里の鯛之浦教会評議会議長から電話があり、故郷での銀祝を祝うミサと祝賀会を11月に予定したいが、何週目を希望しますかと尋ねられました。上五島地区は11月の第2週はいつも合同堅信式に当たっているので、次のように返事をしました。「喜んで招待をお受けします。11月第1日曜日でお願いします。」

11月5日(日)に招待を受けましたので、ついでに田平小教区の皆さんの上五島巡礼を計画したいと思います。11月4日(土)から1泊2日で募集します。ふるってご応募ください。宿泊をどう確保するか、はっきり決まっていませんが、20人くらい募集したいと思います。申し込みは後日申込用紙を用意しますので、記入し主任司祭に預けてください。

巡礼の細かい時間割も決まっていません。確実なことは中田神父の銀祝記念ミサが11月5日(日)の11時くらいなので、そのミサには参加してもらいます。あとは、土日で教会を巡って上五島の信仰を吸い込んでいただければ幸いです。中田神父は銀祝の記念ミサのあと祝賀会も出席なので、鯛之浦でのミサ後は巡礼団と別行動になります。

このような招待を受けると、11月5日はほかのどの日よりも確実な未来に変わります。信徒総会の時点で配られる年間行事予定と比べても確実な未来です。天気が変わろうが、鯛之浦教会にいかなる事情が生じようが、わたしのために時間を空けてもらえます。疑いをはさむ余地もありません。もっと言えば、わたしが不治の病に侵されたとしても、そこに存在しさえすれば、銀祝の行事は確実なわけです。

福音朗読に戻りましょう。「毒麦のたとえ」「からし種」と「パン種」のたとえ、ここにも未来について微塵も疑いを持っていない雰囲気が伝わります。「『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」(13・30)良質な麦と毒麦の区別は果たしてつくのか。そういった疑いすら微塵も感じられません。

また「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(13・33)ここでも、天の国が豊かになり、発展することに何の疑いも持っていないのです。パン種がうまく生地にいきわたるのかなど、わたしたちが心配しそうなことが何も語られていないのです。

これはイエスが、神の国の成長・発展について微塵も疑いを持っていないことをよく表しています。まるで毒麦を抜き集め、良い麦を倉に納める様子をすでに確かめて来たかのようです。あるいは三サトンの粉が膨れる様子を確認済みであるかのようです。イエスにとって神の国の成長は、神が成長させてくださるのだから何の疑いもないこと、疑いをはさむ余地すらないことなのです。

もう一つ、マタイ福音書が読まれていた共同体の中では、イエスがメシアであることについて微塵も疑いを持っていませんでした。マタイ福音書第11章には洗礼者ヨハネのように「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」とイエスがメシアであるか心の揺れがある人たちも登場しますが、マタイ福音書が書き上げられた西暦80年ころにはイエスが死んで復活し、救いを成し遂げられたこと、イエスがメシアであることは疑いのない真実だったのです。

では、同じようにマタイ福音書の朗読を聞いたわたしたちは、神の国の成長が疑う余地のないことであり、イエスが救い主であることもまた疑いようのない真実であると、表明しているのでしょうか。苦労が多いのに結果が見えてこない。召命がみるみる減っているのに働き手を送ってもらえない。イエスさまがわたしを見ておられるのか、救ってくださるのか、疑問に感じるときがある。

なるほど、イエスのたとえもイエスのみわざも、今のわたしたちにとっては疑いをはさみたくなるかもしれません。けれども、いつの時代にも見えないものを見ることができるのは、微塵も疑いを持たない人たちです。

旧約聖書のダニエルの物語は有名ですが、わたしの体験から例を挙げましょう。三十代前半に、長崎の滑石教会で助任司祭をさせてもらった時期がありました。その時お見舞いをしているおばあさんの中に、九十歳を過ぎた方がいて、常々こう言っていました。「神父さま、わたしは滑石教会が栄えますように、滑石教会が栄えますようにと、いつも祈っています。」

このおばあちゃんは、生きている間に、滑石教会の繁栄を見ることができたのでしょうか。少なくともこの滑石教会には、お世話になっている教会が栄えることを微塵も疑わずに祈り続けてくれた人がいたのです。このような人に、神さまが応えてくれないはずがないと思います。

一年を切った田平教会献堂百周年に向けて、わたしたちも毎日祈っています。用意された「田平教会献堂百周年の祈り」の中に、次の言葉があります。「私たちも、この聖堂を祈りと賛美の歌がこだまする家にします。この家がすべての人のともしびとなり、宣教の拠点となるよう努力します。」そうなればいいですねと他人事のように祈っているのでしょうか。こうなることを微塵も疑わずに祈るべきではないでしょうか。

マタイ福音書時代の教会共同体は、イエスが示した神の国の姿を微塵も疑わない人々が証ししてくれました。わたしたちの時代も、わたしたちの教会に注がれる神のまなざしを微塵も疑わずに祈ることで、証ししたいと思います。イエスの働きを微塵も疑わない人々に、神のみわざは実を結びます。

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ちょっとひとやすみ
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▼梅雨が明けて、じっとしていても汗が出てくる。しかも痒い。指の間とか、髪の生え際とか。生え際あるからね(笑)服が肌に触れる瞬間とか。子供のように皮膚がただれるまでかくことはないが、やはりかいてしまう。
▼最近は汗をだらだら流すほど汗をかいたことがない。やはり体の状態を入れ替えるためにも、いっぱい汗をかくことも必要ではないだろうか。冷や汗では、どうも体のリフレッシュにならないような気がする。
▼フィリピンから司祭20名、信徒50名の巡礼団がやってきた。12時到着予定だったが、途中免税店に立ち寄ったことが影響したらしく、大幅に到着が遅れた。わたしは「ああ、ありがちなこと」と流していたが、もう一つの教会はおカンムリだったらしい。
▼それはそうだ。到着に合わせて歓迎する人たちを待たせると、暑い中余計に待たされて具合が悪くなる。日本は秒単位で時間を守る国なので、文化をよく理解して「郷に入っては郷に従え」を実践してね。
▼思ったことを思った通りに言って、「しまった」ということ。木曜日の夜、典礼委員会があり、「夏の暑い盛りなので、体の弱い高齢者は亡くなったりします。身近な高齢者が夏を越せるように、見守りをお願いします」と言ったら、その晩遅くおばあちゃんが亡くなって土曜日通夜、日曜日葬儀ミサ。
▼経験上、そういうことが多いのでご注意を、という意味だったが、事実そうなってみると「しまった」と思う。これから通夜と葬儀を意識して、土日を過ごす。ほかにもいるご年配の皆さん、どうか暑さをうまくしのいでお過ごしください。

† 神に感謝 †