年間第15主日(マタイ13:1-23)

年間第15主日は種まく人のたとえです。種まく人のたとえは、続く毒麦のたとえと並んで、イエスがたとえ話の説明をする珍しいたとえです。わたしたちの生き方につながるたとえだと読みましたので、一緒に考えてみましょう。熱中症なのか、土曜日一日で五回くらい下痢しました。今週は早めに説教を終わります。

農夫が種まきをする様子は、パレスチナのどこにでもありふれた光景でした。誰もが見たことのある光景ですから、当然語られている内容も誰もが理解できたのだと思います。それなのに弟子たちはたとえの説明を求めました。あまりに日常すぎて、たとえに込められた意味を汲み取れなかったのでしょうか。

わたしも、今週の種まく人のたとえは、何を伝えればよいのかなかなか見えませんでした。種まく人がイエスだとしたら、まかれた種は何を意味しているのか。何を当てはめれば分かるだろうかともがきました。

そこで一つの答えにたどり着いたのですが、イエスがまかれた種とは「どのように生きるか」という「生き方」だったのではないでしょうか。道端で、土の少ない石地で、茨の生い茂る場所で、良い土地で。あらゆる場所で、イエスの生き方が示され、種まかれたのです。

しかし、イエスの生き方をすべての人が重く受け止めたわけではありませんでした。イエスの生き方は「重荷を負って苦労する人」の生き方ですから、あこがれを持つ人はいないし、華々しさもありません。弱くしいたげられている人の立場に立ってみなければ、イエスの示した生き方が「本当に価値ある生き方」だと見抜けないのです。

そうしてみると、イエスが種まかれた「イエスに倣うという生き方」は、多くが無駄になるかもしれません。イエスの生き方に興味を持っても、この世を生きるだけならありとあらゆる生き方があり、目移りするほどです。自分さえよければよいという生き方のほうが、かえって魅惑的ですらあります。

エスは、様々な形で、ご自分の生き方を種まきなさいました。すべてを超えて神を愛し、隣人を自分のように愛する。この生き方を様々な形で種まいたのです。ある時は、幸いについての教えを説くことで。ある時は、奇跡を行うことで。ある時は、宗教指導者に追い詰められている人を守り抜くことで。

実を結んだ人たちはイエスが示してくださった生き方を重く受け止めた人たちです。三十倍とか、六十倍とか、百倍と聞くと怯んでしまうかもしれません。でも三十倍の実を結ぶ人を基準に考えれば、その倍実を結んだ人たち、三倍ちょっと実を結んだ人たちです。

エスの生き方を種まかれて、重荷を負って労苦しているなら、その人はすでに実りを約束されています。実を実らせるのは神なのですから。人の二倍三倍苦労した人はいくらでもいるはずです。イエスの生き方に倣ったために重荷を負って労苦しているその人たちに、あふれるほどの実りを約束してくれるのです。

エスが種まかれた生き方は、この世では重荷を負って労苦する生き方ですが、この生き方を重く受け止めた人の報いは、それまでの労苦を忘れさせます。辛抱強く、イエスに種まかれた生き方を積み上げていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼非常にありがたい。有料版メルマガの購読者が現れた。わたしと面識のある人かもしれないし、面識のない人かもしれない。有料版メルマガではないが、ネットでの宣教に共感してくださり、ご寄付もいただいた。非常にありがたい。
▼昔から懇意にしている人が2時間かけてわたしを訪ねてきた。わたしは事情があっても2時間かけて人を訪ねるのは慎重になる。だがその人は事情はあったとしてもわたしが聞きたい先輩の近況を携えて訪ねてくれた。非常にありがたい。
▼土曜日は本当に参った。数日前は珍しく便秘か?と思っていたら、今度は下痢だ。しかも一日に五回もトイレに駆け込んだ。「駆け込み寺」というのは聞いたことがあるが、「駆け込み厠」というのもあるのか。それでも倒れたわけでもないし、「用心しろよ」というきついお灸だと思えば非常にありがたい。
▼7月に入って急に教会行事が立て込んできた。お告げのマリア修道会四季の静修、子供たちとの食事会、平戸地区合同黙想会、新たに献堂百周年の実行委員会会議も入る。なかなか忙しくて、釣りに行く暇がない。ありがたくない。
▼体重が、79kgから78kgに移行した。「誤差の範囲」と言えなくもないが、誤差もいつ計っても78kgなら誤差ではなくなる。お医者さんの話では78kgなんてとんでもなくて、70kgに落としてくださいなどと言うが、そう簡単にはいかない。ただ、毎日できそうな運動が見つかったので、75kgくらいにはなれるかも。非常にありがたい。

† 神に感謝 †