年間第14主日(マタイ11:25-30)

年間第14主日、朗読は大変厄介です。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11・30)「イエスの軛は負いやすく、イエスの荷は軽い」と、信仰を誰かに伝えるときに語らなければなりません。むしろ「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5・39)と宣教するほうが簡単かもしれません。どのように理解したらよいのでしょうか。

司祭の働きから学びたいと思います。カトリック教会は洗礼を受けた時から記録を残して一人のカトリック信徒の魂の状態を保管し続けます。幼子が洗礼を受けたとしましょう。その子は洗礼台帳に記載され、同時に信徒記録票が作成されます。信徒記録票は、いわばその人がいつか進学や就職で転出することになった時のための基本台帳です。

洗礼を受けた子どもは、その後の教会での出来事が追加されていきます。初聖体を受けると、洗礼台帳の備考欄に初聖体の記録が追加されます。堅信を受けると、まずは堅信台帳に堅信の記載をしますが、同じように洗礼台帳と、信徒記録票にも堅信の記録を書き加えなければなりません、婚姻も同じことで、婚姻台帳、洗礼台帳、信徒記録票と合計3箇所に記帳しなければなりません。

正直、大変な作業です。洗礼台帳がすべての台帳の出発点なので、できれば洗礼台帳に堅信の記録を追記すれば、堅信台帳にも、信徒記録票にも、同時に記録が完了する。そういう魔法のような台帳が出来上がればいいのになと思います。

わたしに言わせると、パソコンを駆使し、資金を投入すれば可能だと思うのですが、パソコンを駆使できる世代が司教になり、長老クラスにならないと、そういう時代はやってこないかもしれません。

ただ、聞いた話では、韓国の教会はすでにそういうシステムが出来上がっているそうです。年間5万人も信者が増える国ですから、ある意味そういうオンラインシステムがなければ対応できないのでしょう。

さてここからが問題なのですが、長崎教区の全司祭が、洗礼を受けた人があとで堅信を受けた場合、堅信台帳への記入・洗礼台帳の追記・信徒記録票への追記、すべてを確実にこなしてくれているかと言うとそうではありません。

いろんな教会に赴任してみて、堅信を受けた子の洗礼台帳に当たってみると洗礼台帳には追記されていない。そういうケースはざらにあります。堅信がそうであれば結婚も同じことです。婚姻台帳には確かに記載されていますが、おおもとの洗礼台帳に追記されていないので、未完成のままです。場合によっては、「この人は書類上、結婚していない」という扱いを受ける可能性もあるわけです。

なぜそういうことが起こるかと言いますと、制度上の不備があるからだと思います。教区長である大司教様は、数年に一度小教区を訪問し、すべての台帳に目を通してご自分のサインをするのです。ここに欠陥がある。大司教様は前回のサインをされた頁から今回までの記録に目を通します。仮に5年間だとすると、5年間の洗礼台帳、堅信台帳、婚姻台帳、死亡台帳にサインをするわけです。

しかし、今年堅信を受けた子どもの原簿である洗礼台帳にも堅信を追記しているかどうかは、14年前の洗礼台帳を見なければ分からないわけです。結婚に至ってはなおさらです。今年結婚した人の記録を洗礼台帳に追記しているかどうかは、25年前、30年前の洗礼台帳を見なければ分からない。何が言いたいか、お判りでしょうか。

つまり、洗礼台帳に追記してなくても、バレたりはしないし、いよいよにならないと問題が表面化することもないということなのです。さらに問題なのは、司祭たちはそのことをうすうす分かっているのです。それは数年とかの長さではなくて、場合によっては10年20年、30年前の台帳を見ても同じようなケースに遭遇します。極端な話その人が亡くなってしまえば、洗礼台帳に堅信の追記がなくても婚姻の追記がなくても、表面化しないのです。

わたしは、こういう司祭たちは「知恵のある司祭」「賢い司祭」なのだろうなと思います。ただしイエスはこう言います。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(11・25)

神が御自分の思いを示そうとするのは、悪知恵・悪賢さを働かす者に対してではなく、だれかが、この教会の魂の記録を完成させなければならないと、重荷を負い、軛を背負う覚悟を持つとき、その時代の小教区、その時代の司祭にご自身をお示しになるのだと思います。

ではわたしはどうか。わたしは意地悪な人間なので、諸先輩が追記していない分は、わざと青のボールペンで追記しています。それでもわたしに与えられる時間も永遠ではありませんので、青のボールペンでどこまで未記入部分をさかのぼることができるか分かりません。けれども、中田藤吉神父さまに、百年後にやってきた司祭として胸を張って報告ができる程度には、形を整えたいとは思っています。

歴代主任の記録に青のボールペンで書き込むのは疲れます。重荷です。軛と言えます。しかし、誰も知りえない魂の記録を完成させる達成感は、言葉では表せないものがあります。この達成感がなければ、もともと怠け者のわたしが尻拭いなどするはずがありません。

今回話したことは、主任司祭しか知りえない部分ですが、どこかの時代に赴任した主任司祭が「青ボールペンの仕事」をしてくだされば(別に青のボールペンでなくてもよいですが)、その小教区の魂の記録は救われます。得てして、大教会ほど台帳記録に潜む危険は大きいのです。その誘惑を振り切って、神が世に与えてくださった魂に身をかがめ、台帳記入というゴールの見えない地道な作業に取り組んでくれる司祭こそ、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(11・30)この言葉の意味を理解するのだと思います。

「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエスの言葉の意味を理解できるのは、嘘偽りのない柔和と謙遜を身に付けた人です。軛は二頭の動物を一つにまとめる道具です。わたしと一緒に軛につながれているもう一頭は誰でしょうか。疑いもなくそれはイエス・キリストです。軛が負いやすく、軽い根拠もここにあるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼「来週に続く・・・」「水曜日9時55分に・・・」だいたい見当はつくと思うが、これはドラマの最後に出ることの多い字幕だ。日本語だと「来週に続く」「水曜日9時55分に」を辞書で引くことなどあり得ないわけだが、勉強中のハングルだとわけが違う。
▼「○○9○○55○○・・・(○○の部分は実際はハングル)」ムムム?いったいこれは何だ?録画したドラマを一時停止して、ハングルのメモを取り、辞書を引く。ありがたいことに最近はネットでも翻訳辞書が使える。しかも「文字順」を気にしなくてよい。
▼英語だと「r」で始まる単語の意味を調べるには「a」から辞書をめくっていくわけだが、ネット上では該当する単語を入力すれば一発で翻訳してくれる。辞書を引いて苦笑する。「来週9時55分に・・・そりゃぁそうだよな。」自嘲気味に笑う。最近はその繰り返しだ。
▼それでも半年前とは韓国人との応対にも勇気が出てきた。大したものだ。初めに来た頃は避けていたが、今は「一応話を聞いてみるか」と来たものだ。「チョヌン ナカダシンプ イムニダ」韓国人はこれだけで大喜びしてくれる。その輪に加わることができるようになっただけでもすごい変化だ。
▼最近「根の深い木」という韓国王朝ドラマを観て、ハングルを勉強する気持ちが高まった。ドラマの中では王政が道を踏み外さないように手綱を操作する人々こそ国の根幹であると信じる一派が王の周りで暗躍。しかし王は民の声を聞くために、漢字ではなく、ハングルをひそかに開発させる。28文字で自国民すべてが読み書きできるという優れものだった。
▼ドラマなので単なるハングルの成り立ちというわけにはいかないが、たとえば日本語のカタカナ、ひらがなに匹敵する画期的な文字であることはよく理解できた。わたしの祖母はカタカナしか理解できなかった。そのことを思う時、すべての民に理解できる文字を開発した勇気を学ぶことができた。
▼実は7月17日にこの「国民すべてに分かる表現を」ということに触発された講話をする予定である。だんだんと、自分が果たす役割は「言いっ放し」ではなく「歴史が正しかったかどうかを判断する」そういう重みをもつようになってきた。自分が話したことを理解し受けとめ、長い時間をかけて形にしてくれる人が現れると嬉しい。そうなるように話そうと思う。

† 神に感謝 †