年間第13主日(マタイ10:37-42)

(ミサの初めに)年間第13主日を迎えました。今日は7月の聖トマスの祝日にいちばん近いので、わたしの霊名も祝ってもらえて感謝しています。そして佐世保から「みことば会」の皆さんがこの日のミサに参加してくれました。懐かしいです。小教区の皆さんのため、今日特別に来ている方々のため、心を込めてこのミサをささげたいと思います。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(10・37)これはイエスが弟子たちを前にして話している言葉です。イエスが話している言葉は、よく考える必要があります。12人の弟子たちは、すでに父と母を残して、イエスに従った人たちです。イエスが言っているような説明は必要ない人たちです。

エスの言葉をうまく説明するためには、ここにいる弟子たちは誰なのかをまず考える必要があります。わたしはこう考えます。ここでイエスの言葉を聞いているのは、マタイ福音書が書かれた時代の人々で、イエスが目の前で語っているその意味は、福音書の中のイエスが、朗読を聞いている人々に生き生きと現れているのです。

福音書の朗読を聞いているのは、ほとんどが男性だったと思います。キリスト者たちは初めはユダヤ人の集会がおこなわれる会堂を利用していたはずです。そこに集まるのは、ユダヤ教の習慣に従えば男性ばかりです。女性は、男性が聞いて学んだことを、家に帰ってから聞いて学んでいたのです。この、男性ばかりの集まりが、イエスが語りかけている相手だと思います。

次に、イエスが言っていることですが、これは無理な要求でしょうか。納得できる要求でしょうか。いくつか例を挙げます。わたしが受けたものを比べてみましょう。わたしは父や母から名前をもらいました。神からは洗礼の恵みをもらいました。また、父と母から形をもらいました。父や母の特徴をもらっています。神からは、形はないけれども命をもらいました。

今あげた例で、神が与えてくれたものよりも父や母が与えてくれたものを大切にしたらどうなるでしょうか。神が与えてくれた命よりも、父や母が与えてくれた「形」を大切にする。もし見える形を大切にしても見えない命を大切にしないなら、どんな意味があるのでしょうか。

違う例を考えてみましょう。「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」(10・37)両親は子供に対して、何か計画を考えると思います。2歳になったらこういうことを体験させたい、3歳の時はこの計画、保育園の時期にこの計画、大人になるまでの計画を持っていると思います。そして将来は、こんな人になってほしいと考えているでしょう。

神様もわたしのために計画を持っていると思います。そして神さまの計画、神さまが持っている時間割は、両親が考えている計画と少し違うかもしれません。そんな時、神さまの計画と父母の計画、曲げることができないのはどちらの計画でしょうか。

父母は、自分たちがこどもに思い描いた計画通りに子供たちが成長しないと、心配したり焦ったり、苛立ったりするかもしれません。その時父母が、「なぜ計画通りに進まないのだろうか」と考えるのは、本当に正しいことでしょうか。

ところで神さまの計画は、予定が狂ったり、思い通りにならなかったりしているのでしょうか。わたしは、神さまの計画や時間割は、すべて神さまの望み通りに進んでいくと信じています。神さまはご自分が人間に立てた計画を、心配したり焦ったり苛立ったりはしないと思います。

そこで考えてほしいのですが、「わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」子供の成長を見守る両親は、神さまがこどもに持っている計画よりも、自分たちが子供に思い描いている計画を愛するのは、ふさわしくないと思います。わたしたち両親も、神さまも子供を愛しています。子供を愛することは素晴らしいのですが、子供にかけた両親の計画を愛するようになると、神さまの望みに合わなくなるのではないでしょうか。

わたしたちは子供を見守る時、わたしたちの計画通りに育っていることを喜ぶのではなくて、神さまの望みに答える子供に成長していることを喜ぶ人になっていきたいと思います。

田平教会の主任司祭としては、いろいろ投げかけたことを自分に当てはめ、このように実行したら主任司祭が喜ぶのではないだろうか。そのように考え行動する信徒に育ってほしいといつも願っています。けれども、それは中田神父の思い描く理想ですから、神さまの望みは少し違うところにあるかもしれません。だから、「どうしてわたしの投げかけを、右から左に受け流すのだろうかと苛立ってはいけない」今はそう思っています。

エスは時代を超えて、いつもわたしたちに語りかけています。今は聖書を通してイエスは語りかけます。イエスの声を聞こうとする人はみな、イエスの弟子です。それぞれの生活の中で、「わたしの思いよりも、神の思いが実現しますように」こんな考えを基本にして、生活してほしいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼わたしが代表を務めるボランティアグループについて、わたしのメルマガと比べながら考えてみた。読書に支障のある方々のために音訳を通して情報提供の手助けをしている。会員は例外なく会費を納めて活動を続けている。自分たちの活動を維持するためだ。
▼今は会費の区分が緩和されたが、わたしの記憶によるといちばん活動している中心的な会員は月額600円の会費を払っていたと思う。その次のランクの会員が300円、そして名前を連ねて、つながりだけでも保っていたいという会員は100円だった。
▼わたしの中では「中心的に働いている会員こそ会費を100円に抑えたほうがよいのではないか」という考えがある。中心的な会員はその働きぶりで十分会費を補っていると思うからだ。むしろ中心的な働きができなくなった方々に、多めの会費で活動を負担してもらうのが合理的だと思っている。
▼ところが実際は、個人的な事情をかなり横に置いてまでボランティアを支えてくださっている中心的会員が最も活動資金を負担してきた。長年の伝統であるし、それなりの理由や事情もあるだろうから、責任者の座にいるというだけで仕組みをとやかく言うつもりはない。「働きも会費の納入も、よく頑張るなぁ」と感心するばかりだ。
▼そこで改めて考えてみた。わたしのメルマガ発行に対して、わたしは会費を払うことができるだろうか。自分の働きに対して、いくらかの費用を自分が払うことに意味とか価値を見いだせるだろうか。考えてみた。
▼自分の働きに自分で費用を支払うと、何か変化が起こるだろうか。ひょっとしたら、もっと自分の働きに責任を感じるようになるかもしれない。もっと内容を吟味したり、何度も読み返して対価に見合うメッセージを汲み取ろうとするかもしれない。
▼ということで、有料版(内容は無料メルマガと同じ)を発行し、自分が購読することにする。有料メルマガを自分で購読して、こりゃダメだと思ったら有料版は廃刊としたい。わたしは、このメルマガ配信に月額432円(税込)払う。無料版も継続するし、一切配信を受けず、ブログで読むこともできる。読者もどれかを選んでもらいたい。
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† 神に感謝 †