聖木曜日(ヨハネ13:1-15)

聖なる三日間が始まります。主イエスの過ぎ越しの神秘を、聖なる三日間を通してわたしたちも体験することにしましょう。福音朗読は最後の晩餐の途中、弟子たちの足を洗うという場面でした。最後の晩餐にちなんで、食事について思い出すことから少し話したいと思います。

わたしの幼い時、母親は安い魚を手に入れてすり身にして味噌汁を作って食べさせてくれました。たとえばエソを下ごしらえして、すり鉢で小骨もいっしょにすって塩で味を調え、鍋の中に少しずつ入れていました。熱が加わると、固まってみそ汁の具になりました。この料理はわたしも受け継ぎました。

エスはご自分を食べ物として与えました。食事の席は、人と人とを引き寄せ、結び合わせる力を持っています。イエス自身が、人と人を引き寄せ、結び合わせる食材となってくださいました。どのように食べなさいとか、どの人は食べるにふさわしいとか、何も要求せず、ただ黙って食べられてしまう存在になりました。この点は重要です。

今日の洗足式も、イエスの食べ物になるという姿勢が込められていると思います。足を洗う時、足をこのように差し出せとか、右足から出せ左足から出せとか、何も言わず、ただ黙って足を洗います。ここにも、イエスが弟子たちを引き寄せ、イエスに固く結び合わせる働きが表されています。

司祭の働きも、極めれば極めるほど、小言を決して言わないで仕える姿に変わっていくはずです。司祭が奉仕しやすいようにお膳立てをしろとか、司祭の都合が最優先だとか、どうでもいいことです。司祭の働きは、突き詰めれば食べられてしまう存在になることなのです。

主イエスの模範は、弟子たちにとどまりません。「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13・14)という呼びかけは、イエスを信じるすべての人に及んでいきます。足を洗う動作は、僕の中でも最も低い僕に命じられた務めだったと言われます。イエスは、最も低い僕に自分を置くことを互いに実践しなさいと言い残されたのです。

今の時代に生きるわたしたちには、僕という身分はないので、なかなか実感が湧かないかもしれません。けれどもイエスは、「食べ物」「食材」となって、また食事の途中に弟子たちの足元に膝をついて、互いに実践すべきお手本を残してくださったのです。

わたしは、生活の場で、食べ物となる覚悟があるでしょうか。自分から食べる人を選べないし、ひょっとしたら食べてもらえないこともありうる、そんな身分に自分を置く覚悟があるでしょうか。決して膝をつきたくない人前で、膝をつく覚悟ができているでしょうか。イエスはその心構えを、今日からの聖なる三日間でわたしたちに求めます。

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ちょっとひとやすみ
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▼いいところあるじゃないか。長いこと貸したままになっていたお金を「返してくれ」と言ったら即刻入金してくれ、しかも5%の「迷惑料」まで付けてくれた。今回手紙を書いて請求したが、もっと早く請求すれば早く戻っていたのかな。
▼聖なる三日間が始まった。銀祝を迎えると今まで言わなかったようなことを口にしたりする。立派なダルメシアンを飼っている近所の人に「お父さん。今日は聖木曜日よ。ミサに来て、足を洗ってもらう列に加わったら?」
▼するとそのお父さんは「はーい、気にかけてくださってありがとうございます」と返事をくれた。彼は来るのだろうか。三日間見守ってみることにしよう。三日間連続来るのは無理でも、「来てくれたんだ」と分かれば、それだけでも今までにない変化だと思う。
▼今年は説教の準備に追われそうだ。これまでだと受難の主日にはすべての準備を終えているはずなのに、今年はうまくいかなかった。言い訳は見苦しい。やはり結果を出して、期待に応えるのがあるべき姿だ。
▼結果を出すと言えば、昨日町内の壮年ナイターソフトが始まった。120cmの長尺バットを購入し、ボチボチ素振りをしていたが、3打数2安打となり、結果につながった。2打席目までは大振りせず、当てにいったのでヒットになるのは当然だが、3打席目は自分の能力も考えずに大きいのを狙ってセカンドゴロに倒れた。
▼あわよくばあと1打席回ってきてほしかったのだが、最終回、自分の前の人が倒れて試合終了となった。しかも試合は、9点取ったのに12点取られて負けるという後味の悪い試合となった。聖週間を真面目に過ごして、楽しいナイターにつなげたい。

† 神に感謝 †