受難の主日(マタイ27:11-54)

受難の主日、聖なる一週間を迎えました。この一週間で、一年分の恵みをいただくようなつもりで過ごしていきましょう。

「受難の朗読」について少し説明したいと思います。受難朗読は、古くから聖金曜日の主の受難の記念祭儀に行われていました。きょうの主日にも受難朗読をするのは、主日ごとにキリストの生涯の主な出来事を記念していくためです。現在の朗読配分では、毎年聖金曜日ヨハネ福音書が読まれ、他の福音書は受難の主日に三年周期で読まれます。今年はA年なので、マタイ福音書です。

受難朗読は福音朗読の中でも最も重要な部分で、特別に長い朗読になっています。本日の「聖書と典礼」に掲載されていない長い形(マタイ26・14-27・66)は、ユダの裏切り、最後の晩餐から始まり、イエスの遺体が墓に納められるところまで続きます。また、伝統的に受難朗読を分担して朗読するようになっているのは、キリストの受難の出来事をより生き生きと再現するための工夫です。

朗読から二つのことを取り上げたいと思います。一つはマタイが、イエスの死の場面に、すでにイエスの復活後のことを書いているということです。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(27・51-53)

福音記者は、イエスの十字架上の死が、すでに迫害の中にある教会共同体にとって、さらに墓に眠る聖なる人々にとって、希望となることは明白であると教えようとしているのです。

もう一つは、ピラトの妻が伝言で、「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(27・19)と証言したことです。ピラトも無罪を確信していましたが、ユダヤ人群衆はその頑なさのために致命的な過ちを犯したのでした。

わたしたちは繰り返し受難の朗読に耳を傾けています。わたしたちもまた、イエスは十字架の上で亡くなられたのち復活することを理解してこの典礼にあずかっています。そうであるなら、マタイ時代の教会共同体や、墓に眠る聖なる人々と同様に、わたしたちも十字架上のイエスを希望の源として仰ぐ必要があります。声に出して、十字架上のイエスはわたしたちの希望ですと、表明する必要があります。また、十字架上のイエスの前にたたずむわたしたちは、あえて罪を犯したりして心を頑なにしてはいけないのです。

これから始まる聖週間は、「すべての人をご自分のもとに引き寄せる」(ヨハネ12・32参照)イエスに導かれていく一週間です。

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ちょっとひとやすみ
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▼今年の聖週間が始まった。今年は聖週間の典礼のすべての説教を今日のうちに用意できなかった。一度こういうことになると、もはやなしくずしでいろいろ言い訳をして用意できなくなる可能性がある。残念な聖週間の幕開けとなった。
▼わたしの中では、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12・32)をイメージして今年の聖週間の説教をまとめようと思っている。ひょっとしたら、無理やりそうなるように導入する場面もあるかもしれないが、今年の聖週間を何かのテーマをもって過ごしていく助けになればと思っているので了承願いたい。
▼黙想会の感謝の言葉を何人かの方からいただいた。黙想会の録音を分けてほしいという話もいただいた。病気で自宅にとどまっていたりして、黙想会に参加できなかった方々の中には「お友達から黙想会の評判を聞きました」と教えてくれた人もいた。去年の焼き直しではあったが、黙想ができた黙想会であったならうれしい限りだ。
▼来年からは、どなたか説教師を呼ぶことにしよう。今年は黙想会で頭一杯になった。来年からは黙想会の時間も含めて、「田平教会献堂百周年」のために費やすつもりだ。来年2018年の5月20日あたりを希望しているが、お願いの手紙を出した後の返事を確認する必要がある。
▼自分自身の「司祭叙階銀祝(25周年)」の記念品が先ほど到着した。注文した通りの品物が届いているのだが、これが田平教会と出身教会と、赴任して回った教会であっという間になくなる。目の前には大量に積み上げられているのに、あっけないものだ。
▼赴任した教会ではないが、大神学院時代に実習に行った教会も2つあるのを思い出した。少なからず恩義がある。ただ覚えてくれているかどうかは定かではないが。まあ、それは横に置いて、感謝の気持ちが伝わるようにしようと思う。同期で他教区や修道会の司祭もいるなぁ。

† 神に感謝 †