聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)

今年の聖金曜日受難の朗読の中で、「成し遂げられた」というイエスの言葉が印象に残りました。聖木曜日、弟子たちとの最後の晩餐の中で、ご自分のそばにおいて大切に育ててきた弟子たちに、イエスはご自分を食べ物として与えてくださいました。今日の聖金曜日の出来事の中で、イエスはいのちを与えてくださり、「成し遂げられた」のです。

聖木曜日の、食事の形でご自分を与える姿は、人と人との間でご自分を与える姿と捉えることができます。今日の、十字架の上でいのちを与えてくださる姿は、天と地の間でのやり取りを思わせます。イエスが十字架の上でいのちを与えてくださったことで、地上に暮らすわたしたちに天上の世界が開かれたのです。

ところで、「分け与える」ためには与える方と受ける相手とは近くにいなければなりません。イエスは最後の晩さんの時、ご自身を表すパンとぶどう酒を食事の席に共についている弟子たちに分け与えました。

同じように、十字架のそばには、母マリアと愛する弟子とがいます。イエスは十字架の上でいのちを投げ捨てるのではなく、母と愛する弟子に分け与えるのです。最後の晩さんの席でも、十字架の上でも、イエスは人々を引き寄せ、いのちを与えて一つに結び合わせてくださいます。

ここに大切なしるしが込められています。イエスはパンとぶどう酒の形においても、十字架の上でも、いのちを投げ与えるのではなく、分け与えてくださるのです。そのためには、わたしたちはイエスのそばにいる必要があるのではないでしょうか。委ねられたいのちの重さを感じながら、わたしに与えていただいたイエス・キリストといういのちに養われて生きていく。そういう思いを新たにする必要があるのです。

エスは食事の形でも、実体においても、いのちを分け与えて「成し遂げられた」お方です。わたしたちはその姿を遠くに立って見つめていてはいけないのです。主の食卓にあずかり、主の十字架のそばに立ってあがめ、尊び、主の復活をたたえる者でなければなりません。

わたしたちがこの二日間で学んだことは次の事柄です。イエスは人を引き寄せ、パンとぶどう酒の形のもとで、また十字架の上でも、いのちを分け与えてわたしたちを一つに結び合わせてくださるお方です。

エスに分け与えられたいのちを失わないならば、わたしたちは新しいいのちに生まれます。寿命が来れば終わるいのちではなく、天の国と結ばれているいのちに今日から生きるのです。イエスは天と地を、ご自分のいのちを与えて結んでくださいました。死ぬことによってしかいのちを分け与えることができないので、わたしたちのために十字架上で死んでくださったのです。

今日は静かに、いのちを与えてくださる場所となったその十字架をたたえて家に帰りましょう。このあとの十字架の礼拝は、少し時間を取って各自十分な礼拝をおささげしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼春だからか。頭がぼーっとして準備が進まない。机に向かっていてもその姿勢のまま居眠りしたりしている。先ほど午後2時だったのに、うとうとして次に時計を見たら午後3時を指している。これでは聖なる三日間の実りが思いやられる。
▼この田平小教区に赴任して1年が過ぎた。4月8日に赴任してきたので、まるまる1年過ぎている。たくさんの人に助けられた。25周年を迎えたことでたくさんの人に声をかけてもらった。ありがたい限りだ。
▼一つ、悔いがあるとすれば、人に「このように進むとよいでしょう」と促したことに比べて、自分自身がそれに釣り合うだけ成長できていないことだろう。たとえば、「イエスは十字架にはりつけにされました。十字架にはりつけにされる生き方を不自由と思うなら、わたしたちはイエスの弟子ではありません。」そういう自分は、十字架にはりつけにされる生き方を選び取って来ただろうか。
▼ほかにも、「このように生きてみたらどうでしょう」と促したことがある。その促しを、自分自身も覚悟を持って伝えただろうか。うわべだけの、もし自分に命じられたら「お断りだ」と拒むような日々だったのではないだろうか。
▼わたしの知る限り、田平教会にも何人かこのメルマガを読んでいる人がいるようである。説教は別として、この「ちょっとひとやすみ」は遠くの人に向けて書いている。殴り書きのようなこの文章を読んで、なおかつ直接本人を見ているはずだが、書いていることと普段の生活とは釣り合っているだろうか。調子のいいことを書いておきながら、生活はかけ離れたものになっていないだろうか。

† 神に感謝 †