四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)

四旬節第5主日A年に朗読された箇所は、「ラザロの死」に始まり、「ラザロを生き返らせる」物語で頂点を迎えます。ヨハネ福音書の中でイエスがことばとしるしでもってご自分が誰であるかを教える前半部の総まとめでもあります。わたしたちも四旬節を過ごしてきて、イエスが誰であるかを学ぶ締めくくりとして、朗読を振り返ってみましょう。

4月1日は、どのように過ごされたでしょうか。わたしはこの日の朝のミサで、「かつては『4月1日付の辞令で台湾に転勤することになりました』とある人に言って、その人が食事も喉を通らないほど心配させたことがありましたが、今年も誰にどんなウソを言おうかと楽しみにしております。ただし、『今日こそは騙されない』と身構えている人には年に一度、ウソを言わない日にしようと思っています。」そんな話をしたわけです。

ミサの帰りでした。朝ミサの参加者を見送りながら、小学生にも「おはよう」と声かけましたら、「神父さま、髪の毛がふさふさしてます」と言われました。「え?そうかなぁ」と言った途端、その子は「引っかかった引っかかった」と言って帰って行きました。誰かに何かを言ってからかってやろうという一日の計画が、打ち砕かれた瞬間でした。

これから話すのはウソでも何でもないのですが、黙想会を終えてすぐ、長崎に用事で出かけ、日帰りで帰ってくる途中居眠り運転をしてしまい、事故を起こすところでした。西海町の大串インターからずーっとバイパスを乗り継いで佐々まで来るルートです。

大串インターから入って間もなく眠気が来て、緑色のポールが立ててある中央分離帯のブロックに接触し、ようやく目が覚めました。接触した時すごい音がしました。西海町なのに、「ゴト、ゴト、五島」って、音がしたのです。今日はもうここしか笑うところはありません。分からなかった人はこれ以降の真面目な話だけ聞いていってください。

では福音朗読に戻りましょう。マルタとマリアの兄弟ラザロの病気の知らせを受け、何日かして訪ねてみるとラザロは亡くなって墓に葬られていました。マルタとマリアの兄弟なのですから、年齢的にまだ若かったでしょう。人を悲しみの淵に追いやる死に対して、イエスは心の底から憤りを感じたのでした。

エスは人間にいのちを与え、人を縛り付ける「死」から解放し、生かしてくださるために御父のもとからおいでになりました。人々の中には、この場面でイエスに疑問をいだく人も現れます。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(11・37)。

しるしがあるからと言って、誰もがマルタのようにイエスを「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11・27)と信仰告白できるわけではありません。人間の弱さとか、人間の限界に、イエスは再び憤りを覚えるのです。

そこでラザロを通して、イエスは決定的に、ご自分が人にいのちを与え、生かすためにおいでになったことを示されました。「ラザロ、出て来なさい」(11・43)。こうしてイエスは、人間を悲しみの淵に突き落とす「死」ですら、解き放ってくださる方であることを示されました。

エスは人間の悲しみに無頓着でいられない方であることを、決定的な形で示されたのですが、一方ではイエスを信じない人たちとの対立も決定的となります。祭司長とファリサイ派の人々は、イエスの存在が耐えられないものとなります。彼らは偽善者であり、イエスに厳しく問い詰められていました。またイエスの行動で民が騒ぎを起こすことにでもなれば、ユダヤ全域を支配下に置いているローマが黙ってはいません。イエスには死んでもらわなければならないと考えるようになります。

結果として、イエスは最後まで信じようとしない人々によって死に追いやられることになりました。人にいのちを与え、人を生かすためにおいでになったイエスが、その働きのために死に追いやられます。イエスのわざは無駄だったのでしょうか。しかしイエスは十字架の死を通って復活し、この疑問に復活をもって答えてくださいました。

ラザロの生き返りは、人に取るべき態度を迫る出来事でした。イエスは人を悲しみの淵に突き落とすような死からも人を解放してくださいます。あなたはこの方を信じますか、拒みますか。態度を迫るのです。

もしかしたら、9割以上は神の望みにかなった生活をしているのに、ほんのわずか、隠れて神の望みに背いているかもしれません。イエスを拒んだ宗教指導者たちがそうだったでしょう。9割9分、神の望みにかなって生きていますから、ほんのわずか、悪に手を染めていても見逃してください。そういう生き方にもイエスは釘を刺し、それは偽善である、わたしを信じて生きるか、拒むのか、どちらかであると迫るのです。

まもなくすると、わたしたちは聖なる一週間、聖週間を迎えます。その頂点である聖なる三日間が始まります。この日々を迎えるにあたって、わたしたちはイエスの求めに答えを出さなければなりません。イエスは、信じて神の前にひざまずくのか、イエスの目を盗んでイエスを拒む生活を続けるのか、決めなければならないと思います。

エスに返事をする一つの姿として、できる限り聖なる三日間の典礼に続けて参加しましょう。大人の人だけではありません。小学生も中学生も高校生も、聖なる三日間は教会の典礼の頂点ですから、続けて参加するようにしましょう。

「わたしたちはイエスに活かされて生きているので、イエスのもとに集まります。」この返事をもって、誰にでも堂々と、聖なる三日間の過ごし方を説明してください。その毅然とした態度が、今のわたしたちに求められているのだと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼大人の黙想会が終わった。いろんなことがあった。黙想会の最終日にゆるしの秘跡を受けるので、その導入になるような話をしてゆるしの秘跡に移った。「例年だと4人の司祭が待機してくだされば30〜40分くらいで終わります。」そういう説明だったので1時間充てていたのだが、なんとまぁ、1時間半もかかってしまった。
▼お手伝いしてくださった先輩司祭たちは辛抱強くゆるしの秘跡をしてくださったが、帰る頃には「長いぞ!あと一人雇うか、時間を二度組むか、方法を考えろ」というようなお顔をして帰って行かれた。わたしも簡単に考えていたが、先輩司祭たちには申し訳ないことをした。
▼2回目の話を短くして、残りの時間で「イスラエル巡礼報告会」を開いた。プロジェクターとスクリーンを購入し、聖堂内でみんなとイスラエル巡礼の様子を分かち合った。手短に説明したつもりだったが、これも相当長くかかった。
▼黙想会の間に何人かの人がこんな質問をしてきた。「自分の家族は黙想会に参加できません。黙想会費だけ払えばいいでしょうか?」ちょっとそれは乱暴なので、「黙想会の代わりになるものを用意するので、それを自宅で活用して黙想会の代わりにしてください」と答えた。「黙想会費だけ」と聞くよりは、「ゆるしの秘跡だけでも授けに来てください」と言ってほしかったのだが。
▼「黙想会は疲れるでしょう。これで疲れをいやしてください。」ありがたい声をかけてくれる人もいた。ご飯の差し入れもあった。説教師の司祭は、しばしばこうして励まされてその年の説教を完遂するのである。

† 神に感謝 †