四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)

四旬節第4主日は洗礼の準備をしている志願者がおられる教会はそのための典礼を行うことになっています。わたしたちの教会にも洗礼志願者がいます。少し洗礼の準備のことと重ねて、今週の福音朗読を考えることにしましょう。

いよいよ黙想会が始まります。赴任して最初の年なのでわたしが黙想を引き受けましたが、今年はいつになく準備ができず、うまくいくか心配しています。しっかり準備すれば済むことですが、なかなか時間が取れなかったので、神さま助けてくださいと、祈っているところです。

また、田平教会献堂百周年も、あと一年ちょっととなりました。百年前の5月14日に献堂、つまり神さまにささげられていますので、近い日程、来年の5月20日に記念ミサがおこなえたらなぁと思っています。

関連してですが、「田平教会献堂百周年の祈り」というものを作ってみました。典礼委員会で「作ってくれ作ってくれ」とせがまれたものですから、あまり祈りをしない神父が、必死に祈って作ってみたわけです。おかげで髪の毛が100本抜けました。

祈りの用紙はすでに出来上がっておりますが、どうやら田平教会でのわたしの銀祝が済んでから百周年の祈りを始めるようです。今配ってしまうと、無くしてしまう恐れがあるので、近くなってから配ります。

今日の十字架の道行き、どうでしたか。今回のイエスさまが今まででいちばんだったでしょ?でも身代わりになったクレネのシモンは現れませんでしたね。布を差し出すベロニカおばさんも、現れませんでした。

今日のイエスさまを見て、わたしにもできそうだなと思った人がいるでしょう。そう思った人は、祈りの先唱をしている典礼の人に名を名乗ってください。四旬節に徳を積むことになると思います。今年の四旬節の十字架の道行きも、もうあと残りわずかです。来年も続けたいです。

福音朗読に戻りましょう。「生まれつきの盲人をいやす」物語です。2つのことに注目しましょう。この生まれつき目の不自由な人の、置かれている状況が変わっていく様子と、この人がイエスを呼ぶその呼びかけが変わっていく様子です。わたしにとってこの2つのことは、とても興味深い気付きとなりました。

置かれている状況の変化はさらにファリサイ派の人々から見た変化と、イエスの立場で見た変化とに分かれます。ファリサイ派の人々から見た「生まれつき目の不自由な人」の置かれている状況の変化ですが、彼ら宗教指導者にはもともと、この人が眼中にありませんでした。

当時の考え方では、身体的な不自由をこうむっているのは、本人か、周りの者か、先祖が罪を犯したからだと本気で考えていました。罪を極力遠ざけて生きていると威張っていた人々ですから、「罪の中にいる人」は全く眼中になかったのです。

しかし、イエスによって視力を取り戻し、盲人がファリサイ派の人々の視界に飛び込んできました。彼らは見えるようになった人を尋問し、尋問して自分たちには都合の悪い「あの方は預言者です」という信仰を聞くに至って、またも彼を外に追い出し、視界の外に置いたのです。

彼らファリサイ派の人々は、罪人とされていた生まれつき目の不自由な人が解放されて正しい人の仲間入りをする様子を受け入れることができませんでした。人間の弱さのためです。神のあわれみといつくしみが罪人を救うという愛のはたらきの前に、ひれ伏すことができないのです。自分の正しさだけが大事なのであって、罪人が正しい者とされるのが面白くないのです。

エスはどうでしょうか。イエスは多くの人にとって視界の外にいる人、蚊帳の外にいる人に神がどのように働きかけるのかを身をもって示します。イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけ、すぐにお世話をして、多くの人の目に留まっていなかった人を注目の的にしてくださいます。

それは見世物にするという意味ではなく、神は「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(ルカ1・48)このようになさる方ですよと知らせるためでした。人々が無視したり、避けたりして視界の外にいた人々に、神は初めから目を留め、最後までお世話するということです。生まれつきの盲人は、しいたげられてきた場所から、神の愛といつくしみを溢れるほど受ける場所に移されたのでした。

次に、生まれつきの盲人が、イエスを呼ぶその呼びかけの変化に注意しましょう。ファリサイ派の事情聴取の初めのころ、「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」(9・15)と言います。尋問の最後には、「あの方は預言者です」(9・17)と答えました。そしていよいよイエスと再会して、「主よ、信じます」(9・38)と言ってひざまずいたのです。

わたしたちは、どちらから示された状況の変化に心惹かれるでしょうか。答えは明らかです。わたしたちが信じるイエスが用意してくださる変化に引き付けられるはずです。たとえ今、人々の視界から遠ざけられていても、わたしたちを注目の的とし、はしためにも目を留めてくださる神のなさり方に心惹かれるはずです。

そうであるなら、わたしたちの語る言葉も、変わっていかなければなりません。今の生活にあって、イエスに呼びかける言葉は、単に「あの方」かもしれません。教会に行った時だけ関わりのある方、あの方。本当にそれでよいのでしょうか。もっと、関わりの深い方として呼びかけなければなりません。わたしの生活の大事なところで照らしと導きをいただいている方ですと、答えることができているでしょうか。

そして最後には、「主よ、信じます」と、人生のすべてを託す方として呼びかけたいものです。わたしたちが信じるのは、社会の底辺に置かれている人、日の当たらない片隅に置かれている人を探し出して、光を当て、そっと触れてくださるお方です。そのためにイエスはわたしたちに「遣わされた者」なのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼プロジェクターを購入。プロジェクターにとどまらず、スクリーンも購入。かなりの出費だった。プロジェクターは、もともとDVD鑑賞などに使うつもりで購入したが、プロジェクターが役に立ちそうな場面は外からも飛び込んできた。
典礼委員会で次の聖週間に向けての話し合いがもたれた。その中で、復活徹夜祭の初めに行われる「光の祭儀」(復活のローソクを祝福する典礼)が、典礼の行われている正面玄関近くの人には見えるけれども、最前列の子供たち、高齢者の方に見えないので、スクリーンに映すなど何かできないだろうかという意見が出た。
▼その時には「よし」と思ったが、「検討します」と答えた。ここで活用できれば、ほぼ自分のために買ったはずのプロジェクターとスクリーンが教会のために活きることになる。一石二鳥だ。
▼「求めなさい。そうすれば与えられる。」(マタイ7・7)いつもそうだ。初めての主任司祭の任命を受けて、船で上陸する途中で造船所の4万トンクラスの運搬船を眺めながら、「あんな船を祝別できたらいいなぁ」と思っていたら、その週のうちに造船所から打診が来た。
▼「司祭館の新築が、信徒の気持ちを一つにまとめるきっかけになればいいなぁ。」そうやって司祭館を建てることができた。賑わうきっかけが欲しいなぁと思ったときにも、そのたびにきっかけを与えてくださった。
▼前任地の百周年では「教会の歌」を作ってくださいと言われ、その時も与えていただいた。「音楽2」のわたしがである。今年も、「献堂百周年の祈り」を与えていただいた。<<
† 神に感謝 †