四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)

今週の福音朗読はサマリアの婦人との対話です。イエスが言われた「水を飲ませてください」という呼びかけに注目して今週の糧を得ることにしましょう。

わたしの父の話を少しさせてください。わたしの小学生時代、父はまだ遠洋漁業の船に乗っていました。後にわたしが神学校に入学し、父は船を降りて農協の勧めで牛を飼い始めるのですが、当時はまだ船に乗って月夜間の3日間だけ家庭にいるという生活でした。

3日間しか家にいないのに、1日は仲間と徹夜でマージャンをして家に帰らず、1日は疲れてずっと寝て、子供たちと付き合ってくれるのは1日だけでした。この1日で1ヶ月分を埋め合わせるのですから、父にしてみれば教えることが山のようにあったわけです。わたしたちは、一つひとつ目に焼き付け、次に帰ってくるまでおさらいするのでした。

当然、1日で教えられることは限られてきます。トリモチの木から皮をはいでトリモチを作る。竹馬の足を載せる部分を自分で作る。凧揚げの凧を骨組みから作り、障子紙を張って飛ばす。釣りに行けば釣り糸に針を結ぶ。いろんなことを一から教わりました。

一つだけ悩みがありました。父はあらゆることを教えてくれましたが、一度しか教えてくれなかったのです。しかも作り方は教えてくれましたが、実物は残しませんでした。魚釣りが好きだったわたしにとって、釣り針の結び方を一度しか教えてくれなかったのには苦労しました。お手本にと、結んでくれた釣り針も残してくれなかったのです。

手取り足取りきっちり教えてくれたのですが、いざ父親が船で出てしまい、一人で釣りに行くと、結びが不十分で針が抜けたりします。父のそばで見よう見まねで結んだときはどんなに引っ張っても抜けなかったのに、自分で繰り返してもうまくいきません。これには閉口しました。

しかしよくよく考えると、出来上がったものを与えられても、失ったり壊したりすることがあり得ます。ところが作り方、使い方、手に入れる方法を学んだ人は、決して失わないわけです。その意味で父が与えてくれたものは、わたしの中で生涯失わないものとなっていました。

福音朗読に戻りましょう。サマリアの婦人とイエスが生ける水について対話します。イエスは、「水を飲ませてください」と言われました(4・7参照)。ただし、日本語訳ではこうだということで、本来福音書が書かれたギリシャ語もそうであるかは確かめる必要があります。

悲しいかな、わたしはギリシャ語を読み解くだけの語学力はありませんので、原文に近い形で翻訳された英語を読むと、”Give me to drink.”と書かれています。「水を飲ませてください」と”Give me to drink.”の違いが分かると、わたしの説教のオチもすでに分かったようなものです。

”Give me to drink.”をあえて日本語に訳すと、「わたしに飲み方をください」となります。これが原文のギリシャ語に近いと思います。するとイエスは、サマリアの婦人に、「水を飲ませてください」と言ったのではなく、「わたしに飲み方をください」と言ったことになります。これは明らかに違いがあります。

つい最近高校受験をなさって、見事合格を勝ち取られた中学3年生でしたら、”Give me to drink.”と “Give me (this) water.”は区別できると思います。イエスサマリアの婦人に目の前の水を飲ませてほしいと言ったのではなく、飲み方を教えてくださいと、わざと言ったのです。

今週の説教のために、クムランの洞窟遺跡の写真を用意してみました。見てお分かりかと思いますが、このように乾燥した砂漠で、目の前に水などあるはずがありません。たとえ運よく井戸が掘り当てられても、その井戸もいつ涸れるかもわかりません。すると、本当に必要なのは目の前の水なのではなくて、水の飲み方、肉体的にも精神的にも、渇きをいやすその方法を知っておかなければならないのです。

ではイエスは、水の飲み方、渇きをいやすその方法を、サマリアの婦人に教えてもらおうとしたのでしょうか。そんなはずはありません。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(4・10)と言っているお方ですから、イエスは人間がどのようにすれば真に渇きをいやすことができるのか、ご存知なのです。

ではなぜ、あえてサマリアの婦人にそのように話しかけたのでしょうか。それは、彼女に気づいてもらうためです。人は誰もが渇く。肉体的にも渇くけれども、それ以上に精神的に乾く。だから人はみな、渇きをいやすために、水の飲み方を学ばなければならない。それも、イエスから学ばなければならないと気付かせようとしているのです。

最終的に、サマリアの婦人は渇きをいやす水のありかを見つけたのでしょうか。彼女の理解はまだ不十分でした。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(4・15)

エスの招きを十分理解するためには、聖霊の照らしが必要です。サマリアの婦人にも、そして彼女を通してイエスを知り、信じるようになったサマリア人たちも、そしてわたしたちもです。洗礼を受けていきなりカトリックの信者として十分生きていけるわけでもないし、堅信を受けた瞬間、大人の信者に成長するわけでもありません。一歩ずつ近づいていくし、徐々に恵みの意味を理解するようになるのです。

「わたしに飲み方をください。」イエスが示してくれた願い方を、わたしたちも願いましょう。どんな場面でも、永遠の命に至る水を探し当てることができるように。イエスが、その水を与えてくださることを忘れないように。永遠の命に至る水の探し方を学んだ人は、ある時目の前の水を失っても、渇いたままでいることはありません。

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ちょっとひとやすみ
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▼19日(日)は長崎教区の司祭叙階式の日。上五島出身の受階者が1人司祭に叙階される。助祭に叙階される候補者はいないようだ。毎年続けて司祭を送り続けることも、召命の減少があって難しくなってきた。
▼最初の数年間は助任司祭として頑張ってほしい。初めは本当に時間に追われて、あっという間に時間が過ぎる。時間が逃げていく中で、どうやって自分を失わず、自分の時間を確保するか。わたしはそこまでの余裕はなかったが、自分を見失わないためにも、自分を取り戻す時間を持ってほしい。
▼環境が一変する。環境の変化にうまく乗っかるために、先輩の話はよく聞くこと。わたしはこう言われた。「司祭になった今日から、『白は白、黒も白』だぞ。」意味はご想像にお任せする。
▼すべきことが山積みになり、「その日のことをその日で果たす」これができなくなったら一度自分の生活を見直す。「本当に今の時間の使い方、今の過ごし方が自分に適合しているだろうか。」考えてみよう。
▼どこに自分のタレントが生かせそうか、3年くらいで見極める。そこを伸ばし、小教区のため、教区のため、日本の教会のために役立ててほしい。わたしはパソコンを早くから扱っていたので、現在インターネットを使って説教を配信している。
▼メモを取る習慣を。記憶に頼ると、次から次へと依頼される業務で忙殺され、忘れてしまう。納骨の依頼、特定のミサの依頼、新しい訪問先の病人。「分かりました」と返事したのにメモをしなかったことで迷惑をかけないように。
▼思わぬアイディアが浮かぶことがある。その時のためにもメモできる何かを持ち歩くべきだ。わたしはiPhoneをメモ帳代わりにしている。おかげでふっと湧いて浮かんで、すぐに消えるアイディアを少しは活かせるようになった。とにかく、楽しみに待っている。

† 神に感謝 †