四旬節第2主日(マタイ17:1-9)

四旬節第2主日は主の変容を朗読に取り上げて、わたしたちを「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(17・5)と招きます。イエスの声に聞き従うとはどういう生き方を指すのか、考えてみましょう。

3月12日、51歳の誕生日を迎えました。日本人男性の平均寿命は、2015年の統計によると80.79歳だそうです。普通に考えるとあと30年生きられれば良しとしなければなりません。そうすると、これからの30年で何をすべきかを決めておかなければならないと思いました。

何か具体的なことを決めるのではありません。個人的には今年韓国語を勉強しようと考えていますが、あれをする、これをするということよりも、むしろ何をしているときでも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」この声に聞き従っている人生でありたい。要するにイエスのあとをついて行く人生でありたいと思いました。

生まれた時の様子を母親から教えてもらったことがあります。わたしは仮死状態で生まれたために、すぐは鳴き声を上げなかったそうです。自宅から100mも離れていないところに産婆さんがいて、この方に取り上げてもらいました。第一声を上げるまで、母は生きた心地がしなかったそうです。産婆さんが処置をして、ようやく鳴き声を上げました。

それからもう51年も経ちました。あと5日経つと、今度は叙階記念日です。3月17日の叙階記念日で、とうとう25周年、銀祝を迎えることになります。小学生で警察に補導までされた過去を含め、わたしは本当は「家を建てる者の捨てた石」(マタイ21・42)だったのに、神さまは今日まで辛抱強く使ってくださいました。感謝に絶えません。先に話した通り、どのように決断し、行動すべきか、残る30年はイエス・キリストに耳を傾けて、決断し行動する人生を送りたいと思うのです。

福音朗読に移りましょう。ペトロは高い山でイエスの輝く姿、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合う姿を見て、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(17・4)と感嘆しました。

この場面、わたしたちは大切なことを見落として、興奮気味に語るペトロの言葉を聞いているかもしれません。それは、「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(17・1)ということです。誰がこの場所に導いてくれたのか。それはイエスだったのです。イエスが目的をもって弟子たちを山に連れて行き、あの光景をお見せになったということです。

そこを見落とさずに考えると、今度は「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた。」(17・9)ここもイエスが導いて山を下りているのだと分かります。目的があるのです。

何が言いたいか。弟子たちはイエスが導いたので高い山に連れてこられ、あの荘厳な場面を見た。そうであれば、これから山を下りて弟子たちが直面しなければならない主のご受難とご死去、これらもイエスが導いて体験させる出来事である、ということです。人間が体験する輝かしい場面も闇の場面も、イエスがそこに導いて、イエスが体験させてくれている。そういうことなのです。

ペトロをはじめ弟子たちは、高い山での栄光ある場面に感嘆するのですが、苦しめられ、死んで、復活することになっていると打ち明けられると、手の裏を返したように否定します。弟子たちはイエスに導かれ、連れてこられてすべての体験をしているのに、輝かしい場面は受け入れ、惨めな場面になると避ける。どちらもイエスは「わたしが弟子たちを呼び出して、指し示している道だ」と教えているのです。

同じことはわたしたちにも当てはまります。わたしたちは神に呼び出され、導かれてある時ある場所に置かれている。すべて神の導きの中で起こる出来事です。それなのに、自分にとって喜ばしいものは受け入れるけれども、辛く苦しく感じるとそれを途端に拒むのです。これはいけません。イエスが高い山に連れて行ってくだされば栄光を見るし、深い淵に下りて行くことになれば、試練を受けるのは当然です。

人はみな、神に呼ばれてこの世に生を受けています。神に呼ばれて、今日を迎えました。山の上でも、地の底でも、神が導いてお与えになるものは受けるべきです。もちろん、甘んじて受けるためには勇気が必要です。信頼が必要です。拠り所をどこに求めればよいでしょうか。

わたしたちが拠り所とするのは次のみ言葉だと思います。「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』」(17・7)イエスのほうからわたしたちに近づいて、触れてくださる。実はイエスが弟子たちに近付く場面は、復活の場面にもあります。

「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』」(マタイ28・18)いざ宣教に出かけてみると、だれも耳を貸さないとか冷たくあしらわれるとか、カトリック信者と表明しただけで「なんだ宗教の押し売りか」と相手にしてもらえない。いろんな惨めな思いが考えられます。けれどもイエスはいつも、どんなときも、わたしに近づいて力づけてくださるのです。

輝かしい場面も、惨めで避けて通りたい場面も、勇気を持って受け取る。そのためにイエスは近づいてくださるのです。イエスが導いてくださった場所で出来事は起こっているから、どんなことがあってもイエスはすぐに近づいて、触れてくださったり声をかけてくださるのです。

「イエスがわたしをここに導いて立たせてくださった。」そう信じて日々を送りましょう。わたしたちの態度がぶれないなら、人々は神の声に耳を傾けて生きるわたしたちの姿に魅了されることでしょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼今日が誕生日。51歳になった。51歳でハングル(韓国語)の勉強をして汗をかいている。べつに韓流スターにときめいてではなく、まずは頻繁にやってくる韓国からの巡礼者の応対をするためだ。
▼前にも言ったが、英語で話しかけても多くの場合返事がない。全く英語に興味がないのか、全く学んでいないのか、英語を嫌っているのか、いずれかであろうと思っていた。ところが、ハングルを学び始めて、「それだけではないかも」と思うようになった。
▼韓国では上下関係が厳格に守られていて、たとえば電話で「お父さんはいらっしゃいますか?」と尋ねたとする。日本人なら、「父は今自宅にいません」と言っても問題ない。ところが韓国の人たちは「父」は明確に「目上」であり、「お父様は今自宅にいらっしゃいません」と返事をする。
▼日本語だと違和感がある。しかし韓国では上下関係は相対的なものではなく、絶対的なものであり、徹底して目上に対する用語で話す必要がある。そこで連想したのだが、彼らに"Nice to meet you."と語りかけても、韓国人信徒からするとおそらく日本人司祭は目上なのだろう。
▼そのため「英語で目上の人にどのように答えればよいのだろうか?」と悩んでしまい、つい言葉を飲み込んでいるのではなかろうかと思うようになったのである。ハングルを勉強していて、そう思いたくなるほど、言語に上下関係を厳格に求めるのである。
▼英語はその点で言うととてもフランクである。目上に対してとか、同僚に対してとか、そんな区別は基本的にない。誰にでも"Nice to meet you."である。もちろん突っ込んで考えれば偉い人に「やぁ、元気?」とならないような英語表現はあるだろうが、それはよほどのことだろう。
▼かじったばかりのハングルを長々と偉そうに書いたが、51歳を全く感じないくらい、真剣にハングルを勉強している。気がついたら説教を韓国語でしているかもしれない。ミサを韓国語でしているかもしれない。近くて遠い国に、この一年で橋を架ける道具にできたらと思っている。

† 神に感謝 †