年間第8主日(マタイ6:24-34)

降誕節から四旬節までをつなぐ年間の主日も、年間第8主日で終わります。今週の水曜日は四旬節の開始となる「灰の水曜日」です。イエスは「思い悩むな」(6・25)と呼びかけていますから、心の整理を付ける何かをつかんで持ち帰ることにしましょう。

さて、来週初聖体を迎えるお子さんがわたしたちの教会にもいます。わたしにとって初聖体の思い出は白いタイツを履いたことくらいしかありませんが、わたしたち田平教会の家族の中で初聖体を受けるお子さんには、ご聖体を授かった思い出を残してあげたいと思います。

小さい子を前にしていつも心を痛めるのは、ミサの説教が難しいということです。子供たちからは「何を言ってるんだろう?」といつも思われていることでしょう。初聖体のお子さんはなおのこと、「早く終わらないかなぁ」くらいにしか思われていないはずです。

もしよかったら、「今日、神父さんはこんな話をしていた。聞き取れたか?」と、教会からの帰り道でご両親がもう一度説教を話題にしてくれたらありがたいです。わたしもできるだけ、帰り道でも思い出せるような話を用意しようと思います。

初聖体のお子さんには、来週二つのことを試験しようと思っています。どの教会でも同じことを試験しているので、共通一次試験のようなものです。将来堅信組になった時、二次試験をしますが、一次試験に通らなければ二次試験もないのですから、来週しっかり問いかけに答えてほしいなぁと思います。試験の内容は、今週のお話しからです。

今週イエスさまは、当たり前のように見ているものをたとえにしながら、大切なことを教えようとしています。当たり前のように見ているものから、「思い悩むな」と教えるのです。一つは「空の鳥をよく見なさい」(6・26)と言います。

空の鳥を養ってくださる神さまは、なおさら、わたしたち人間を養ってくださいますと教えます。もう一つは、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」(6・28)と言います。野の花を美しく装ってくださる神さまは、なおさら、わたしたち人間の必要にも答えてくださるのですよと教えます。

当たり前のように見ているものが二つ出てきました。「空の鳥」と「野の花」です。実はこの二つでイエスさまは、世界のすべてを表しているのです。空と大地、そこにあるものを示したのですから、空と大地のすべてを、たった二つのたとえで言い表しているのです。何とイエスさまは頭がいいのでしょう。そのイエスさまが「思い悩むな」と言っておられるのです。思い悩む必要なんてどこにもありません。

それなのに人間は、毎日毎日悩んでいます。お母さんは献立で悩んでいるかもしれません。「あー、今日のご飯は何にしよう。昨日と違うものを考えて、家族が健康に過ごせるようにしたいなぁ。」そんな悩みがあるかもしれません。

お父さんも悩みがあるかもしれません。「子供たちが将来大きくなった時に困らないように、いろんなことを教えたり話してあげたいなぁ。どうすればお父さんの気持ちが伝わるだろうか。」そんなことを思っているかもしれません。

おうちの人が子供のためにいろいろ思い悩んでいます。ひょっとしたら、気持ちはたくさんあるのに、それをうまく伝えられなくて、うまく説明できなくて、悩んでいるかもしれません。

おうちの人がそんなに悩んでいるのなら、まして神さまはすべての人に、もっと思いが溢れていると思います。みんなが食べて満たされるために、どんな食べ物をあげようか。天と地のすべてに心を配っているわたしは、人間にはもっと心を配っているよと、どうやって伝えたらよいだろうか。「思い悩むな」と、どうやって伝えたらよいだろうか。おうちの人以上に、神さまはいつも気にかけていると思います。

そこで神さまは、答えを見つけました。わたしは、御子イエス・キリストを人間の食べ物として与えよう。御子イエスが人として生まれてからお亡くなりになるまでのすべての時間を、人間を初めから終わりまで守り導くしるしとして与えよう。神さまが出した最高の答え、それがイエスさまをわたしたちの食べ物として与えること、救いの切り札としてわたしたちに与えることだったのです。

神さまはわたしたち人間を必ず養う。そのためにイエスさまがパンとぶどう酒の形のもとにとどまることをお望みになりました。一つめの質問はこうです。「パンの形のもとにとどまっておられる方はどなたですか。」「パンの形のもとにとどまっておられるのはイエスさまです。」わたしたち人間を必ず養う。わたしたち人間をいつも養うために、イエスさまはパンの形のもとにとどまっておられるのです。

二つ目の質問はこうです。子供たちはおうちの人とお話をしながら育っていきます。親子の会話は、両親が子供をいつも見守り、導いてくれることのしるしです。では、「わたしたちが父である神さまとお話しをするために、イエスさまが与えてくださったものは何でしょうか。」「わたしたちが父である神さまとお話しをするために与えていただいたのは『主の祈り』です。」

主の祈りを覚えて、お祈りすると、神さまはわたしたちに答えて導いてくださいます。幼い時だけでなく、学生が試験を受けるときも、大学や就職を目指すときにも、大人になって何か決めなければならないときも、主の祈りを唱える人に神さまは答えてくださり、導きを与えてくださいます。天と地のすべてに心を配る神さまは、なおさらわたしたち人間、それも神様に祈る人に、心を砕いてくださるのです。

初聖体は、「思い悩むな」と励ますイエスさまからの最高の贈り物です。ご聖体を与えてくださる神さまがわたしたちの神さまです。思い悩むことをやめて、信頼を取り戻しましょう。すべてにまして配慮してくださる神さまの答えを、来週の日曜日、いただきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼最近の「え?そんなはずないのに」という話。1992年3月17日に司祭に叙階されて、まもなく25年になる。長崎教区本部からも「祝賀会を設けるので来賓に家族・親戚を10人招待してください」という案内を受けた。自分自身も25周年の記念に何かを残そうと考えている。
▼それで記念の一環として、25周年(銀祝)の記念カードを製作することにした。司祭に叙階されたとき、ある修道会から贈られた色紙を記念カードの版に使わせてもらった。このカードはしばらくは在庫があったが、田平教会に赴任した時、開いてもらった歓迎会の参加者にすべて配ってしまった。
▼今回銀祝の記念カードを作るにあたり、同じデザインを版に使おうと考えた。司祭叙階の恵みを受けた時から今に至るまで、一貫しているというメッセージを込めたつもりである。そこで印刷所に版を製作してもらうため、本物の色紙を実家から送ってもらい、また田平教会の信徒に声をかけて、歓迎会の時に配った叙階式当時の記念カードを貸してくれとお願いした。
▼実家からの色紙はすぐに届いた。ところが、田平教会の信徒は「そんな記念カードは見たことがない」と言うのである。「いや、歓迎会の帰りに持って帰ってもらうように、手配したよ」と言うが、ご婦人方も教会役員も「知らぬ存ぜぬ」の一点張り。わたしも心配になって、「本当に持たないの?」と聞いたが持たないという。
▼どうしても信じられず、当時の歓迎会で記念カードを託した人に問い合わせると「確かに預かって、『欲しい方は帰りに持ち帰ってください』と声をかけました」と言う。ずいぶん尋ねて回って、なるほど受け取った人もいるようだったが、たいていの人は「持ってない。配られたことも知らない」と言う。
▼残念だが、もはやわたしの手元には一枚も残っていない。持っているあてのある人に尋ねて、裏のメッセージを写真で送ってもらった。「今週の1枚」のように書かれた記念カードをお持ちの方は、よかったら教えてほしい。カードの表は後日、25周年の記念カードで公開する。

† 神に感謝 †