年間第6主日(マタイ5:17-37)

年間第6主日の福音朗読は律法に目を向けさせる招きです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5・17)しかし律法に固執したり、しがみついたりしなさいと言っているわけではありません。イエスが本当に言おうとしていることを汲み取る努力をしましょう。

そこでイエスが言われる「廃止する」「完成する」について考える材料を提供しましょう。現代の医学は急速に進歩し、臓器移植をするにも誰かに直接臓器を提供してもらうのではなく、細胞を培養して臓器を作り、移植するという道にさえ可能性が開けてきました。

ただそれでも、細胞という最小の単位はあるわけで、細胞を砕いてしまえばもうそれは使い物になりません。ここまで細かくすることには意味があるけれども、これ以上細かくしたり砕いたりすれば意味を失う。そういう線引きが最先端の医療にもあるわけです。

エスが言われた「廃止する」という言葉の意味合いも、このようなものです。律法や預言者、つまり聖書が教える神の掟と命令を、律法学者やファリサイ派の人々は細かく分けて考えることで詳しく知ろうとしたわけですが、あまりにも細かく分けて、砕いてしまうと、神が示した律法と命令は意味を失ってしまうのです。

エスが語った「廃止する」という言葉は、「ばらばらにする」とか「ずたずたにする」という意味があるそうです。律法学者やファリサイ派の人々は、掟を細分化しすぎて、ばらばらに、ずたずたにしてしまった。イエスはそのようことをしに来たのではなく、律法が血の通った掟、神の思いを適切に表す掟に再びよみがえらせるためにおいでになり、語られたのです。

ついこの前堅信組の試験をしました。祈りの暗唱の部と、学びを試す筆記試験を行いました。祈りが5問で50点、筆記試験が150点、合計して160点で合格としています。合格しなくても補習をして受けさせますが、やはり堅信の秘跡を受ける人に、使徒信条くらいは覚えていてほしいと思います。

そこで祈りの暗唱の部で使徒信条や、天主の十戒などを尋ねました。一字一句覚えているかどうかを聞きたいのではありません。多少間違えて暗記したかもしれない、たどたどしいかもしれない。けれども、唱えている使徒信条が血の通ったものかどうかは、試験官が聞いていれば分かるわけです。

特に使徒信条については、全員が血の通った使徒信条を唱えられる状態で、堅信の秘跡を受けてもらいたいなぁと心から願っています。使徒信条を暗唱できないなら、何を信じて堅信の秘跡を受けているかわかりません。自分が信じている父と子と聖霊の神を人の前で表明できてこそ、堅信の秘跡を受ける一人前の信者のはずです。そこは譲れません。

今週の選ばれた福音朗読の中で、イエスが律法について、殺人について、姦淫について、離縁について、誓いについて語っています。これらはイエスが宣言した「廃止するためではなく、完成するためである」に基づいて考えるとよくわかります。

律法学者やファリサイ派の人々は事細かに場面を分けて、この場合はこうである、あの場合はどうであると解釈していたのですが、これまでの行き過ぎた細分化はむしろ律法を破壊していたのです。だからもう一度イエスはこれらのずたずたに引き裂かれた律法を血の通ったものによみがえらせてくださったのです。

わたしたちも、ともすると教会にしっかりつながっている根拠を、教会の教えを事細かに説明できる、そういうことに求めているかもしれません。しかし、イエスが期待しているのは血の通った信仰です。別の箇所に書かれている神殿で祈る二人の人の姿です。

律法を隅から隅まで熟知し、週に二度断食し、全収入の十分の一をささげていると祈るファリサイ派の人。かたや目を天に上げもせず、胸を打ちながら、「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る徴税人。血の通った信仰は、徴税人にあったわけです。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(5・20)

行いだけを見れば、ファリサイ派の人々の義にまさるわざはおそらく誰にもできません。けれども血の通った祈りを唱えること、血の通った悔い改めを示すことは、わたしたちの誰にでも可能なのです。

わたしたちの日頃の信仰生活は、血の通ったものになっているでしょうか。わたし自身を振り返ると、日曜日の説教案を準備する中で、「あーやっと書けた」こういう思いは「ファリサイ派の人々の義にまさらない」かもしれません。説教を書き上げたことには違いありませんが、「これで今週の福音朗読の何かが伝わりますように」そういう思いがなければ、血の通ったものとは言えないと思うのです。

もう一度、堅信の秘跡を受ける中学生に呼びかけたいです。使徒信条を、血の通った唱え方のできる人になってください。カトリックの信仰などさらさら持っていない同級生でも、「天地の創造主、全能の父である神を信じます」とオウム返しに言うことは可能なのです。

けれども堅信の秘跡を受ける皆さんの使徒信条は違うはずです。十分とは言えなくても、信じている。信じた上で、たとえたどたどしくても唱えている。そこがいいのです。そこに意味があるのです。

信仰の一つひとつのわざを、血の通ったものにしましょう。「廃止するためではなく、完成するために来た」イエスにわたしたちが従っている証しは、わたしたちの信仰に血が通っているかどうかにかかっています。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼田平教会から申し込みをした6人が大阪での高山右近列福式に参加してきた。わたしは大村空港へ送る役と、大村空港へ出迎える役を買って出た。先週たしか「旅のしおり」を用意して渡したと言った。それが役立つことを願って大村空港へ送った。
▼大村空港で駐車場に車を入れ、念のためチケットを受け取るところまで確認して田平に帰ろうと思っていた。ところが車を降りてまもなく、O先輩司祭と同行の信徒に出会った。かつて大変お世話になった同行の信徒に当時のお礼など声掛けをしていると、わたしが連れてきた6人は「あらぁ〜O神父様。懐かしい。」とそっちに飛んで行った。
▼それはまぁ、かつての主任司祭であれば無理もないので、それではご婦人たちのお世話はこの先輩神父様にお任せしましょうと思ってチケットを発券するところまでは確認せずに車に戻り、田平に帰った。
▼翌日の夜、6人が大村空港に帰り着く時間に合わせて出迎えに。無事6人が降りて来て、4人はお手洗いに。その場に残った2人に「列福式の翌日は、無事に玉造教会での列福式感謝のミサに参加してM大司教様にもお会いできたかな?」と尋ねると、「それが、ですね、実は」と口ごもる。
▼これは何かあったのだと思い、「残りは車で聞こう。そのほうが聞き取りやすい」とかなんとか言ってみんなを車に導いて家路についた。これからの話が傑作。直木賞芥川賞がもらえそう。詳しくは次週。

† 神に感謝 †