年間第5主日(マタイ5:13-16)

「山の上にある町は、隠れることができない。」(5・14)年間第5主日でイエスが思い描いたのはエルサレムの町かもしれません。エルサレムは標高800mの小高い丘の上にあるので、イエスの考えていた町にうまく合致します。このエルサレムの町に、イエスは何を重ねて考えたのでしょうか。

掲示してある写真は「山の上にある町」として紹介されたエルサレムを訪ねた時のものです。オリーブの茂るゲッセマネの園がわから見た景色、エルサレム旧市街を囲む城壁、聖墳墓教会、かつてあったエルサレム神殿の模型などを並べてみました。あらためて、今回巡礼したイスラエルの訪問地の中で、ひときわ印象に残る場所でした。

ところで皆さんは田平教会を海の上から眺めたことがあるでしょうか。わたしは漁船で海に出て三度目に、ようやく海の上から田平教会を眺めることができました。それまでは釣りをすることで精いっぱいだったのですが、周りを見回しながら船を出した三度目の出航で、初めて海の上から田平教会の塔が丘の上に見えたのです。それはまさに「山の上にある教会」でした。

「あー、これだ」と思いました。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(5・14-16)

田平教会が献堂されたとき、まだ山の木はそれほど高くなかったことでしょう。ですからなおさら、この平戸瀬戸を船で行き交う人々は、カトリック教会のすばらしさ、カトリック信者の働きのすばらしさを身近に感じ、天の父をたたえていたのではないでしょうか。

宣教師たちが教会を山の上に建てたり、港を見下ろす場所に建てました。それは、最も効果的な場所を選んでのことでした。見事な教会を眺めて、遠くから見る教会の明かりに導かれて、教会に足を運んだ人もいたに違いありません。そのような人の中から、天の父をあがめる人も現れるのだと思います。

「山の上にある町エルサレム」「山の上にある田平教会」と考えてみました。最終的に、「山の上にある町」とは何を指しているのでしょうか。「ともし火」は「家の中のものすべて」を照らし、「山の上にある町」は「隠れることのできないもの」「人々の前に輝くもの」「立派な行い」「天の父をあがめるきっかけ」となっていきます。すると、わたしこそ「ともし火」であり「山の上にある町」である、と言うのはちょっと言いづらいかもしれません。

このあたりで勘のいい人は気付いていることでしょう。最終的に「ともし火」「山の上にある町」とは、イエス・キリストのことではないでしょうか。わたしたちが燭台の上に置き、山の上にある町として大切にすべきものは、イエス・キリストなのです。

今年、2月5日が日曜日と重なりました。2月5日は日本26聖人殉教者の祝日です。この田平教会が日本26聖人にささげられた教会ですので、この教会の祝日と言ってもよいと思います。26人の殉教者は、西坂の丘の上で殉教したのだと思います。すると、彼らの殉教は「山の上にある町」のように、隠れることができない明白な出来事だったわけです。

一説によると、大浦天主堂は、26聖人の殉教の丘の方角に向けられて建設されたとも言われます。大浦天主堂もまた、「山の上にある町」のように、隠れることができない明白な信仰のシンボルとなっています。26聖人は、いのちをささげて、自分たちに注がれたイエスのともし火、イエスの光を人々の前に輝かせたのです。

26聖人は、西坂の丘の上で、迫害に正面から向き合って「地の塩」「世の光」「山の上にある町」となりました。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちもこの山の上にある田平教会に集まっています。山の上で山上の説教を聞いています。山の上で秘跡の恵みを受けています。そして派遣されて、山を降りて生活の場に戻っていくのです。この集いの中で、何かを持ち帰るべきではないでしょうか。わたしたちの家の中のものすべてを照らす「ともし火」を、持ち帰る必要があるのではないでしょうか。

この田平教会には、26聖人を目指して22人も司祭を送り出した信仰があります。修道者はその何倍もです。何かこの教会になければ、22人もの司祭や数多くの修道者を送り出せるはずがありません。ひとつまみで味を決めてくれる塩、家の中のものすべてを照らすともし火、山の上にある町の輝き、何かがここにあるはずです。

もしわたしたちが、山の上にあるこの田平教会から、毎週何かをつかんで持ち帰るなら、わたしたちの家庭、わたしたちが出会う人、わたしたちが暮らす社会は、わたしたちを通してイエス・キリストを知り、天の父をあがめるようになるでしょう。

この神の家に集うたびに、何かをつかみ、持ち帰る。その習慣を身に付けましょう。毎回はつかめないかもしれません。しかし何かをつかもうと耳を積まし、目を見開いてこのミサにあずかる人が増えるなら、田平教会はこの21世紀にあっても地の塩世の光、山の上にある町なのだと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼大阪のユスト高山右近列福式に田平教会からの申し込みが6人いて、参加の手配をわたしが引き受けた。旅行会社の「フリープラン」を利用することにして、「列福式ミサ」と、翌日の「列福式感謝ミサ」を含めた「旅行のしおり」を作った。
▼わたしが参加すればそんな面倒なことをする必要もないのだが、あいにくわたしは列福式を失礼することにしているので、せめてもの償いに、参加者が迷子にならないように、「旅行のしおり」くらいは用意してあげようということになった次第。わたしは小教区の予定を優先して、今回列福式は見送った。
▼小教区に目をやると、今月第3日曜日は「平戸地区堅信式」、3月下旬は小学生の黙想会と大人の黙想会、おいそれと息を抜くこともできない。しかしそうした年度末の追い込みは、教会のいつもの風景。追われているけれども、気持ちよい日々でもある。
▼予定では、高山右近を学んで、それを黙想会に活かそうと思う。わたしが高山右近を語る資格などないのは百も承知だが、学んだことをかみ砕いて分かち合うのは、つねに司祭の務めだから、今回は高山右近を取り上げるということだ。
▼今年は自分で黙想会を引き受ける。来年からは誰か別の司祭にお願いしたいが、やはり最初と最後は責任があると思っている。もちろん最初は分かっているが最後はいつになるかは誰にも分からない。そういう意味では毎年黙想会の時期は自分の学びのためにも何かを準備して過ごしたいと思う。
▼田平教会で昨年末から今年の初めに取り組んできた「聖書愛読運動」は、わたしにはずいぶん勉強になった。詩編に取り組んでいるが、その週の朗読の前に、短い解説をわたしが用意して典礼係がそれを読み上げて実際の朗読に入ることになっている。
▼どんなスケジュールであっても毎週この解説が必要になる。準備を欠かさず続けたので、かなり自分を律する必要に迫られたし、それなりの勉強にもなった。こういう生活ばかりをしているといつかオーバーワークになる。どこかで息抜きが必要だ。

† 神に感謝 †