年間第3主日(マタイ4:12-23)

年間第3主日、イエスガリラヤで伝道を始める場面が朗読されました。イエスは「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」(4・13)とあります。せっかくイスラエル巡礼をしてきたのですから、カファルナウムで見たことを初めに紹介したいと思います。

カファルナウムでは、イエスがこの地を活動の拠点とされたことを記念して、教会が立てられていました。現代的な教会で、発掘によって見つかった古い住居のあとをそのまま残すために、高床式の建物のように教会を建てています。

さらに聖堂の中央部分はガラス張りになっていて、古代の住居跡が見えていました。イエスが活動の拠点にしたカファルナウムに残る遺跡から、イエスが住まわれた場所もこのようなものだったかなと思い巡らしながらしばらく祈ってきたのでした。

ついでですが、ここは17年前にも訪ねた場所でした。ところがほとんど記憶がなくて、この巡礼を企画してくれた旅行会社の野口さんから、「神父さま、本当に覚えてないのですか?困りますねぇそんなことでは」と言われてしまいました。よくよく考えると、聖堂内に入ったような記憶はありますが、床がガラス張りで、当時の住居跡が確認できるようになっていたことは思い出せませんでした。

このカファルナウムは、ガリラヤ湖の北に位置しています。ガリラヤ湖は海抜マイナス210mで、地中海などと比べるとはるかに低い場所なのです。そのため、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(4・16)と光が届かない地底に例えられるのも無理はありません。

そういう地理的条件にあるカファルナウムの町に、イエスは伝道の拠点を置きました。光は、光源から遠ざかるほど弱い光になります。「暗闇、死の影の地」と例えられたガリラヤの町々は、地の底でしたから光が届くころには弱い光になるはずなのです。

しかしマタイ福音記者は、イエスがカファルナウムに住まわれた様子を「光が届かないはずの場所に、光の方から近づいてこられた」と理解したのです。ガリラヤの人たちも同じだったでしょう。自分たちの住む場所に、光の方から近づいてこられるなど考えられないと思っていたはずです。そこへイエスはやって来てお住みになり、ガリラヤ周辺の人々の希望の光となってくださったのです。

このような背景を踏まえてイエスが宣べ伝えた言葉を考えると、当時のガリラヤの人々がどのように受けとめたかが分かってきます。見捨てられた町、光が差し込まない町と考えられていた町々に、光であるイエスが直接降りて来て、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4・17)と言われたのです。それはきっと、「わたしたちに特別に目をかけてくれる人が現れた。わたしたちを見捨てないお方が現れた」そう受けとめたのではないでしょうか。イエスの呼びかけは、すんなり聞き入れられたと思います。

こうした伝道の中で、イエスはご自分の弟子をお呼びになりました。シモンとその兄弟アンデレの召命、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの召命、それぞれ別々の場面ですが、呼ばれて弟子となる流れは驚くほど似ています。「イエスが彼らのところに行き→二人の兄弟をご覧になって→彼らに声をかけると→彼らは網や父親を残して→イエスに従った」。この流れです。

もっと言うと、召命とは「イエスに呼ばれること」です。生き方が180度変わるのは、それがイエスに呼ばれたからです。今までの生き方は自分のために生きる生き方でしたが、イエスが呼ばれたのはイエスにすべてを委ねるためにお呼びになります。湖の底の潜んでいる魚を引き上げる仕事から、光の届かない闇、死の影の谷に住む人に光を届け、かれらを引き上げるために呼ばれたのです。

実はわたしたちも、イエスに呼ばれて、呼びかけに答えた者です。司祭は「わたしとわたしの後継者に、尊敬と従順を約束しますか」と呼ばれて、「はい」と答えました。修道者も清貧・貞潔・従順の誓願によって神に呼ばれました。結婚した人たちも、「あなたは○○さんを夫としますか、妻としますか」と呼ばれて、「はい」と答えたのです。

だれもが、神のお住まいになるこの聖堂で、それぞれの生き方に入るために呼ばれたのです。堅信の秘跡を受けた時点でわたしたちは「神の賜物である聖霊のしるしを受けなさい」「アーメン」と答えて、キリストの兵士として、キリストを生き、証しするよう呼ばれているのです。

エスに呼ばれたのですから、呼びかけに答えたわたしたちはすっかり変えられたはずです。「わたしはシモン・ペトロやアンデレではないから」とか「わたしはヤコブヨハネとは違うから」と考えて、イエスの呼びかけを軽んじたりしていないでしょうか。

わたしたちはこの聖堂で、あるいはほかの聖堂で、神がおられる場所から呼ばれ、「はい」と答えた者なのです。ぜひもう一度、自分が呼ばれた生活でイエスに自分を委ねて生きてきただろうかと振り返ってみてください。「イエスよ、あなたの呼びかけにこうして答えてまいりました」と申し上げながらこの人生を完成させたいと思います。

もちろん答えられない場面もあるでしょう。それらはゆるしを願いながら、一つでも二つでも、「喜んでください。わたしはこんな形であなたに答えることができました」という報告をしながら日々を送りましょう。

子どもたちに特にお願いしたいことがあります。イエスさまはさらにまさった生き方を用意しています。もし、イエスさまのもっとそば近くでお手伝いしたいと感じたなら、主任神父さまやシスターにその気持ちを伝えてください。イエスさまのそば近くで働く子どもたちを、主任神父さまやシスターたちは心待ちにしています。

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ちょっとひとやすみ
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カトリック神学院東京キャンパスに「月の静修」の中の講話をするために東京に出張した。日本におけるカトリック司祭の養成は、かつては東京と福岡の二つの神学院が別々に養成をしていたのだが、現在はそれが統合され、両方での時間をすごしたのちに司祭に叙階され、巣立っていくことになっている。
▼東京キャンパスは、そのうち最初の二年間(哲学コース)と最終年度(助祭コース)を過ごす場所となっている。前もってどんな人たちがいるのか尋ねもしないで行ったが、行ってみるとイメージとは違った学生たちが神学生ライフを送っていた。
▼わたしたち長崎教区の神学生は、前提として「小神学院生活」あるいは「コレジオ生活」をしたのちに東京キャンパスに行くことになっている。だから神学生としての生活は通算で十年目、短くても四年目という状態で進んでいる。それは顔つきにも出るわけで、場所が変わっても落ち着きがある。
▼大神学院だから、そういう顔をイメージしていたが、そうではなかった。初めて神学生ライフを始めた人たちがいて、召命について悩み始めるのも初めてという学生たちがそこにはいた。わたしの講話は「将来の司祭に期待すること」という内容だったが、どこかに長崎スタイルの養成を受けた大神学院の神学生をイメージしていたかもしれない。
▼そう言えば、カトリック神学院東京キャンパスに行ったことを証しする写真を撮影してこなかった。武蔵関という駅から500mくらい歩いた場所で、上智大学神学部のそばである。聖堂は落ち着いた雰囲気で、山上の説教の教会、あるいは受胎告知の教会をイメージさせる造りだった。

† 神に感謝 †