神の母聖マリア(ルカ2:16-21)

神の母聖マリアの守るべき大祝日を迎えました。カトリック教会は、神の母聖マリアに、新年のスタートを大切にする日本と日本の教会をゆだねようとしているのかもしれません。2017年を、どのように過ごせばよいのか、マリアの模範を仰ぐことにしましょう。

皆さんあらためて、新年おめでとうございます。過ぎた年は皆さんにとっても、入れ替わりの年で戸惑うことも多かったかと思います。わたしも、これまで六年間住んでいた環境からがらりと変わり、戸惑いながら何ができるのかを探しつつ過ごしてきました。

一つお知らせしておきたいことがあります。わたしは年賀状を近くの人に出さないことにしています。小教区の皆さんから年賀状をいただくこともありますが、こうして新年を皆さんと迎えますので、年賀状は省略させてもらっております。小学生とか保育園の園児の場合は、届いたのを見てから出すこともありますが、それ以外は出しておりませんので、お許しください。

福音朗読に入りましょう。登場人物は大きく二手に分かれています。羊飼いたち、そしてマリアとヨセフは、幼子の誕生をとおして神の働きに思いを向けようとしています。これが一つのグループです。もう一つは、羊飼いたちがこの幼子について天使が話してくれたことを知らせましたが、羊飼いたちの話を不思議に思うだけの人々です。

一方は、出来事を見て、その出来事の中で何が起こっているのかを見極めようとしています。もう一方の人々は、出来事を見るには見ますが、出来事の表面、うわべだけに目を奪われている人々です。それはたとえて言えば、手品を見せられてどうしても仕掛けが見破れずに目を丸くしている人と、どうすれば気付かれずに実行できるのかをじっくり考えてトリックを見抜く人の違いでしょうか。

手品はわたしの専門分野ではありませんが、ふたをしっかり閉めた瓶の上に五百円玉を置いて、その上に手をかざして五百円玉を瓶の中に落とすという手品があります。わたしはその程度の手品でしたら見破られずに実演して見せることができるかなぁと思っています。

ジャムなどを入れる瓶を空にして、あらかじめふたの内側に五百円を張り付けておいてふたをしっかり閉め、それからふたの上に五百円を置き、手を勢いよく押し付けると、ふたの内側の五百円が落ちる。あとはふたの上に置いた五百円をさりげなく取り除けば、見た目には五百円が通過して瓶の中に落ちたように見えるわけです。

出来事の向こうにあるものを見抜くことができない人には、いつまででもその手品は有効だと思います。しかし必ず何かの仕掛けがあるに違いないと思って、日夜考え抜くなら、ある日その仕掛けを思い付くでしょう。羊飼いたちは、今まで何度も見たであろう赤ん坊の誕生に遭遇したのですが、マリアとヨセフに見守られている赤ん坊を見た時、本当に起こっていること、つまり「見聞きしたことが天使の話したとおりだった」(2・20)この見逃せない点を見抜いて、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。喜びのしるしはこれこれの形で与えられる。それが家畜小屋の中であっても、天使の話した通りであれば、ここに神の救いの計画が実現したのだと羊飼いは理解できたのです。

すべての人が出来事の中で実現していることを理解できるわけではありません。羊飼いたちの話を不思議に思った人たちがいました。彼らは出来事が天使の話したとおりであったと聞かされても信じることができなかったのでしょう。羊飼いが信用できなかったのかもしれないし、救い主が飼い葉桶に寝かされているなど、信じられなかったかもしれません。いずれにしても、表面的なことに目を奪われて、与えられたしるしの中で実現している神の計画まで思い至らない人たちがいるのです。

それは現代でも同じことです。人類の救い主が、十字架にかかって亡くなるなど、とても考えられないことです。けれども実際には出来事は起こり、その中で神の計画が実現したのです。特にマリアはイエスの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしました。

誕生から、十字架上の死まで、出来事の表面だけに目を奪われるならどこで信頼を失っても不思議ではありませんでした。けれどもマリアは、戸惑う出来事をいつも突破して、神の計画が実現していくのを目の当たりにしたのです。出来事の表面に惑わされないマリアの姿は、すべての人の中で際立った特徴です。

ここに、わたしたちの模範があります。マリアは何度も、戸惑いを覚えるような出来事にぶつかり、そのたびに戸惑う出来事を突破して、本当に見なければならないものを探し出して進みました。マリアが表面的な出来事を突破するとき基本にしていたのは、出来事の中に実現していく神の計画を、じっと思い巡らすということでした。

わたしたちも、今年一年難しい問題に直面することもあるかと思います。しかしあきらめたり投げ出したりするのではなく、そのたびに「神は今ここで何を実現させようとしておられるのだろうか」と思い巡らす。そうして本当に見なければならないものを探し出し、前に進んでいきましょう。

わたしたちが前に進むときの判断基準は、マリアと同じく「神が望まれることは何か。神が喜ばれることは何か」です。答えはすぐには見つからないかもしれない。その時は立ち止まって、思い巡らしましょう。神が必ず指し示してくださる唯一の物差しで、2017年を歩みだすことにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼新年あけましておめでとうございます。本年は司祭叙階25周年(銀祝)の年です。皆様に使ってもらって、ここまでたどり着くことができました。感謝申し上げます。今年も、旧年度うようよろしくお願いいたします。
▼旅する教会、人生の長い旅、これらを象徴するかのように、今年の初め、聖地巡礼に行ってまいります。二度目のイスラエル訪問です。人が住む場所は当然時間とともに変化していきます。20年の月日が経ち、どのように変化しているでしょうか。
▼最近よく物を取り損ねて落としてしまう。薬を服用するとき、銀紙から破って薬を出したが、「あっ」と思ったら落としてしまった。腹立たしい。これも肉体の経年変化で、この体でこれからも旅をするんだよと、徐々に教えてくれているのだろうか。
▼田平教会はここ最近1月1日神の母聖マリアの祭日のミサは大晦日の深夜0時と、午前9時となっている。この頃は夜遅くに仕事をしたくない。ミサを「仕事」と言っては語弊があるが、おかげで今もまだ何となく眠ったような感じである。
▼よく言うわ、と思いながら書いている。だがおそらく、当日になればそういう感覚になっているだろう。通常でも12時を過ぎて床に就くと朝は相当きつい。年始の挨拶が済んだら、とっとと布団かぶって寝ようか。でも玄関は開けておかないとチャイムでかえって煩わされそうだ。
▼昨年の振り返り、わたしが赴任した教会は、みずからの小教区だけを考えておけばよい教会ではないと思った。近くの教会に応援に行ったり、平戸ザビエル教会の代わりに平戸地区の行事を迎えたり、周りへの配慮を忘れてはいけない小教区である。
▼今年の抱負。わたしは平戸地区の大切な核となる教会の主任司祭として、何ができるかを考えて歩いていく。手を差し伸べ、協力を申し出るところもあると思うし、田平教会がその役目を引き受けましょうと手を上げることもあるだろう。韓国の巡礼団を迎えるのもその一つかもしれない。そうだ。ハングルをもう少し覚えよう。

† 神に感謝 †