主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)

あらためて主の降誕おめでとうございます。主の降誕日中のミサは、ヨハネ福音書の冒頭が必ず福音朗読に選ばれます。今年は大人の方の入信の秘跡(洗礼・堅信)がこの後に控えています。そこで秘跡の恵みを思い浮かべながら学びを得たいと思います。

朗読から次の箇所を取り上げたいと思います。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1・12)「言(ことば)」と表されているのはわたしたちのために人となってくださったイエス・キリスト、昨晩から馬小屋で飼い葉桶に寝かされている乳飲み子として人類に与えられた救い主のことです。神が、人間の救いのために、民全体に与えられる大きな喜びとして御子を世に与えてくださいました。ここにいるわたしたちは、そのことを信じて、こうして集い、祝っているのです。

しかし、もしここにいる誰かが、「今年もクリスマスにミサに来ました。では来年のクリスマスまでさようなら。また会いましょう」と言うなら、その人はクリスマスの一瞬、イエス・キリストを受け入れただけで、毎日曜日、毎瞬間、イエス・キリストに導かれて生きる道を選んでいるとは言えないと思います。

先ほどの引用箇所でヨハネ福音記者が言いたいのは、一瞬イエス・キリストを受け入れるだけでなく、今日も明日も、イエス・キリストがわたしを神の子としてくださる、神の子として導いてくださると信じ続ける必要性を強調しているのです。

さて今日は、入信の秘跡を受けるために長い準備をしてこられた方がその時を待っています。洗礼・堅信の秘跡は、言ってみれば今日一日の出来事です。しかし、神の恵みによって生きる生活は、今日から日々積み重なっていくものなのです。洗礼によって原罪と自罪のすべてが赦された。赦されて神の子となっただけでなく、今日から、わたしを変えてくださったイエス・キリストに感謝して過ごす日々が始まるのです。

入信の秘跡を終えている皆さんも、今日洗礼を受ける方を見守りながら考えましょう。わたしたちは、今日の入信者よりも一日の長があるものとして、日々イエス・キリストの恵みと導きに信頼して歩み続けます。その約束を、今日の入信者と共に神におささげします。こうしてわたしたちは、互いに喜び合い、神の恵みを感謝し合い、神の子となる資格を日々新しくしていくのです。

ではこれから、入信の秘跡である洗礼と堅信の秘跡に移りたいと思います。洗礼を受けてからは、ここにいる皆さんが兄弟姉妹です。分からないことは教えてくださいます。困ったことは助けてくださいます。信頼して、神にご自身をお委ねしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼うすうす気づいているかもしれない。年末年始はイスラエル巡礼のことを考えると先の先まで説教原稿を用意しておかないと間に合わない。そこでまとめて原稿を書き上げている。どの時点でどこまで原稿をまとめ書きしたかは、読者の楽しみのためにとっておこう。
▼「中田神父と言ったらトレードマークは帽子だね。」これは大司教様の名言である。たしかにここ10年ほど、帽子をかぶっているような気がする。というか、わたしの帽子は司教様と違ってハゲ隠しだけれども。
▼その帽子で今悩んでいる。どの帽子をかぶってイスラエルに行こうか。わたしのお気に入りは2つあって、一つはフェルト生地の帽子。これはプレゼントしていただいたもので、ふだん愛用しているものだ。
▼もう一つは、広島カープの文字をあしらった帽子(野球帽ではない)。これは気に入って自分で買ったものだ。「イスラエルでフェルトの帽子をかぶった人はいても、広島カープの帽子をかぶった人は二人といないだろう。」そう思うと広島カープの帽子をかぶりたいが、これに関連して20年前の苦い思い出が自分の思い付きを躊躇させてしまう。
▼20年前、当時の島本大司教様の呼びかけで青年を30人イスラエル巡礼に連れて行ってくれた。そこに、各地区から1人ずつ司祭が同伴した。わたしは佐世保地区の同行司祭として行くわけだが、「イスラエルに行ったら、ガリラヤ湖で釣りでしょ〜」そう思って本気で釣竿をスーツケースに入れて出発した。
▼いざガリラヤ湖へ。朝食が始まるまで2時間、湖で竿を出した。もちろん簡単に釣れるはずもなく、「まぁ釣れないわな」と思いながら帰ってみると、朝食前に散歩している青年男子と出くわした。その青年は司祭であるわたしと、釣り竿とを交互に見ながらこう吐き捨てた。「神父さん。あんたは何をしに、このイスラエルに来たんですか。巡礼に来たんじゃないのですか?」
▼「巡礼に来たよ。来たけど、思い出に釣りぐらいいいじゃないか。」その青年は以後わたしを完全に無視し、わたしも声がかけられない気まずい雰囲気になった。このトラウマがあって、広島カープの帽子をかぶっていくか、控えるべきかと悩んでいるのである。

† 神に感謝 †