主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)

主の降誕おめでとうございます。中田神父にとっては、初めて田平教会で迎えるご降誕です。今日の福音朗読から、「見失った一匹の羊にも届く大きな喜び」という見方で考えてみたいと思います。

今年のクリスマス、わたしは初めてある人々に、「力が足りず申し訳ない」「ご降誕のミサにあずからせることができず、本当に面目ない」と思いました。わたしたちの小教区に限りませんが、それぞれの小教区には、行きたくてもご降誕のミサにあずかれない人、あずかれなかった人がいるわけです。

たとえば、わたしはこちらに来て25人近い人のお見舞いをしています。この方々は、残念ながらご降誕のミサにあずかることができません。12月のお見舞いをしながら、一人ひとりに「ご降誕は今のこの場所で迎えることになると思うけれども、お祈りしていてね」と声をかけました。

しかし、気分は晴れませんでした。「お祈りしていてね」なんて、慰めにならないと思ったのです。せめてご降誕のミサにはあずかりたい。そう思っている人に「がまんしてね」と言っているのですから。気の利いた言葉も思い浮かばす、本当に心苦しかったです。

さらに、ご降誕まで生きられず、旅立っていった人たちもいました。特に直前に亡くなった人には、ご聖体も授けてあげられず、「ご降誕はお祈りしていてね」と言ってはみたものの、力が及ばなかった悔しさから、わたしは唇をかんで帰ってきたのです。

ほかにも、わたしの知らないところで今日の日を迎え、一人で心をこの聖堂に向けている人がいるかもしれません。ひとことで言うなら力が及ばなかった。本当にそう思いながら、今年のご降誕を迎えたのです。

福音朗読から、ある部分を比べて考えてみたいと思います。皇帝アウグストゥスは、全領土の住民に、登録せよと勅令を下しました。これに対し神が遣わされた天使は、民全体に与えられる大きな喜びを告げました。どちらも、自分の力が及ぶすべての人を対象にしています。しかし登録せよとの勅令は不安と恐怖しか与えませんが、主の天使の知らせは民全体に大きな喜びをもたらしたのです。

さらに、皇帝の勅令は全領土の住民に及びましたが、恐らくそれでも人数のうちに数えられていない人はいたと思います。たとえば羊飼いは、住まいを転々としていたわけですから、本来登録すべき自分の町や村などなかったでしょう。彼らはきっと数のうちに入っていなかったのです。また重い病気の人々、人々から遠ざけられて暮らしている人々も、数のうちに入っていなかったと思うのです。

主の天使の知らせは違っていました。おそらく人口調査を命じられた人々が人数に含めてなかった羊飼いに、喜びの知らせは届いたのです。想像をたくましくするなら、重い病気の人、人々から遠ざけられて暮らしている人々にも、大きな喜びが告げ知らされたのです。中田神父の力は及びませんでしたが、御子を与えてくださった神のいつくしみの手は、及ばない場所などないのです。今この時にも、民全体に与えられる大きな喜びが告げ知らされているのです。

わたしたちのまわりではどうでしょうか「民全体に与えられる大きな喜び」は、隅々にまで届けられているでしょうか。中田神父の力だけではどうしても及ばない場所があります。どうしても把握できない人たちがいます。もし皆さんが、だれか泣いている人、数えてもらっていない人を知っていて、今日のこの喜びを届けに行ってくれたら、2千年前の出来事は、今この時にも実現するのです。皆さんの手を、皆さんの足を、喜びの知らせを届ける手に、届ける足にしてほしいのです。

しかし中には、どう伝えてよいかわからない人もいるかもしれません。そんな方に、一つの道具を紹介します。わたしは必要があって、田平教会でのミサの様子を毎週録音して残しています。わたしが関わっている目の不自由な人にミサの録音を届けるためです。もちろんこの夜半のミサも録音してCDに残しています。もし、伝え方がわからないという人がいれば、今日のこの夜半のミサの録音は役に立つと思います。わたしに声をかけてください。

この世は全領土の住民を把握しようとします。しかし、把握はしても告げ知らせるものは責任と義務です。せいぜいよくて権利です。神は違います。神はご自分の民全体に、救い主がお生まれになったと告げてくださいました。誰も気にかけてくれない人にも、忘れられ、泣いている人にも、大きな喜びを告げてくださいました。

そこでわたしたちも、その知らせを届けるために一役買いましょう。この大きな喜びの知らせが、完全に民全体に届くまで。このミサにあずかれなくても、わたしたちにはあの人が喜びの知らせを届けに来てくれるから大丈夫。そんな、神の望みが隅々にまでいきわたる神の国の完成のときまで。

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ちょっとひとやすみ
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▼主の降誕おめでとうございます。クリスマスに必ずケーキを買ってくれる人がいた。「いらない」と強がっても、必ず手渡してくれる人だった。今はどこで、わたしがひとりクリスマスの夜を過ごしているのを眺めているのだろうか。
▼決して放ってくれないその人のことを思っているうち、神様こそがそのようなお方なのだなぁと思えてきた。「かまわないでくれ。」悪魔はそう言って、イエスを拒絶した。しかし悪魔にズタズタにされた人を憐れむ神は、決して放ってはおかなかった。
▼旅立ったご婦人を、わたしは今も思い出す。最後に訪問した時、力及ばなくてごめんなさいと、わたしは心の中で泣いていた。どうにかして、クリスマスの日にその人の魂を慰めたいと思った。今はどこかで、救い主がおいでになってくださって、慰めてくれているだろうか。
イスラエル巡礼が近づいている。イスラエル巡礼中に何かが変わるということはないのかもしれないが、巡礼から帰ってくると、何かが変わるかもしれない。イエスは歩いて、福音を宣べ伝えた。その大地を歩けば、何かを受け取ってくるのではないかと思っている。
▼準備もあたふたしているが、行った先で誰かと何かを話してみたいと英語をもう一度学んでいる。「聞くだけ」の勉強のような気もするが、それでも5年前、10年前に聞き取れなかった言葉が「あー、そう言っていたのね」と聞き取れている。
▼それに加えてハングルも学び始めている。何せ「インチョン空港」で最初の待ち合わせなので、看板を読み落としてイスラエルに行けなかったらたまったものではない。ハングルは入り口はたやすく入れるが、奥は迷路だ。なかなか「とらえた」というところまでいかない。英語と比べたら触れてきた時間に差があるから仕方がないか。でも楽しい。

† 神に感謝 †