待降節第2主日(マタイ3:1-12)

待降節第2主日を迎えました。洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは事態が切迫していると感じて人々に悔い改めの洗礼を促しています。事態は一刻を争う。その緊迫した呼びかけに、わたしたちも耳を傾け、必要な行動は何か、考えてみましょう。

かんころもちが浜串教会のご婦人から送ってきました。どんな意味合いのかんころもちか、お分かりでない方もいらっしゃると思いますから、ちょっといきさつをお話しします。11月15日に前任地の浜串教会で教会献堂五十周年記念ミサが行われまして、記念ミサの説教を頼まれて参加してきました。

ミサの時間は午前10時半だったのですが、9時半には浜串教会に入りまして、誰か懐かしい人はいないかと思い、ウロウロしていたわけです。聖堂に入りますと、懐かしいご婦人方がまとまって座っていました。

祭壇から降りて行って近づきますと、その中に司祭館のすぐわきの空き地でよくかんころを作っていた方が見えたのです。「そうか、そろそろかんころを作る時期だなぁ」と思って声をかけようと近づきますと、「神父様はどちらの神父様ですか?」と言うではありませんか。

わたしは声を失いまして、半年前まで浜串にいたのに、「どなたです?」はないだろうと思いました。わたしはこう言いました。「この前までいた中田神父だよ。どなたですかはあんまりだわ。かんころもそろそろ作り始める頃でしょ。田平教会にかんころを2本送ってちょうだい。それで今の無礼は勘弁してやるから(笑)」この一件で、わたしは浜串教会への未練がきれいさっぱりなくなりました。

そのご婦人が、さっそくかんころを送ってくれたわけです。2本ではなくて5本入ってました。すぐにお礼の葉書を書きました。何人かにおすそ分けして、味わって食べております。犬も歩けばかんころに当たる。思い切って言ってみるものだと思いました。

かんころの届いた日からさかのぼって考えてみました。11月15日にかんころ2本で勘弁してやると言ってから、1週間くらいで届いています。芋を洗って、薄皮をむいてスライスし、いったん茹でて干し、日光と寒風にさらし、もう一度蒸して練り上げて成型する。それが1週間で1本ずつ袋詰めされて送られてきました。

おそらくすぐにとりかかって送ってくれたのでしょう。わたしが冗談半分に言ったことでも、ご婦人は一刻を争うと受け止め、行動を起こしたということです。わたしもこのご婦人が一刻を争って仕上げてくれたことをねぎらって、また送ってねと書きました。

福音朗読に戻りましょう。洗礼者ヨハネの活動が取り上げられています。待降節第2主日はいつも洗礼者ヨハネを取り上げますが、マタイ福音書が描く洗礼者ヨハネの活動は、まさに一刻を争うことが強調されています。いくつか言葉を拾ってみましょう。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」(3・7)「斧は既に木の根元に置かれている。」(3・10)「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(3・12)厳しい言葉が並んでいます。すぐに結果を出しなさいと、叫んでいるのです。

ではどんな結果を、洗礼者ヨハネは求めているのでしょうか。今週の朗読で具体的な招きをしているのは一つだけです。洗礼です。ルカ福音書が伝える洗礼者ヨハネの活動の場面では、それぞれの人に合った具体的行動が示されていました(「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(ルカ3・11)など)が、マタイはそれらを省略しています。事態は一刻を争うのであり、究極の結果は洗礼を受けることだと言っているのです。

洗礼を受けるとは、生活の物差しを自分に置く生き方から、神が喜ぶかどうかの物差しで生きる人に180度変わりますという意思表示です。神が指し示す方向に今すぐ生き方を変えますという決意の表れです。一つ、神様の喜ぶ生き方を選び、またしばらくしたらもう一つ、ではなく、今すぐに、全面的に向き直るべきだと決断を迫っているのです。

ヨハネが授けた洗礼は、「後から来る方」にすっかり向きを変える心の準備の洗礼でした。「後から来る方」イエスは、「聖霊と火」で洗礼を授け、洗礼を受けた人の生活をすべて、すっかり神の喜ぶ方向に向け直すことを求める方なのです。「後から来る方」イエスを喜んで迎えるために、当時の人々はヨハネから悔い改めの洗礼を受けました。

わたしたちはどうでしょうか。ここにいるほとんどの皆さんはすでに洗礼を受けています。では、洗礼者ヨハネの呼びかけは届いているでしょうか。一刻も早く、自分が中心の生き方からイエスが中心の生き方に向き直って、日々歩いていると言い切れるでしょうか。

どうやったら教会の求めに答え、なおかつ現在の生活も両立できるだろうか。そのような葛藤や悩みを経験しておられるでしょうか。日曜日は部活だから、日曜日も仕事だから、ミサには行かない。ミサにどうやったら行けるだろうかの悩みがない。悩みや葛藤が抜け落ちている。こうした生活は本当に受けた洗礼の恵みに生涯忠実でありたいと願っていることになるでしょうか。

洗礼を受けたことで、その次の秘跡の恵みが開かれます。大人の信者になる堅信、聖体、罪のゆるし、病者の塗油などです。またある人は婚姻の秘跡にあずかり、ある人は叙階の秘跡にあずかります。人生のあらゆる場面を、教会を通して受ける神の恵みに合わせていく。「悔い改めにふさわしい実を結べ」とは、この覚悟を求めているのだと思います。

事態は一刻を争います。気が向いたら聖体拝領します、告白します、暇があれば結婚式を教会でします、ではないのです。今すぐに、わたしはイエスの喜びとなる生活に向き直りますと、ヨハネの招きを自分のものとしましょう。これからご降誕までの日々を、大切に過ごしていけるよう、ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼12月の病人訪問を終えて、何人かの見舞いの時に涙が出た。この人たちはおそらくクリスマスを病院で迎えなければならないのだ。わたしはこれまで決して、そのような状況に置かれたことがなかったので、そこまで深刻に考えなかったが、クリスマスを教会で迎えることができないのは相当に深刻な事態である。
▼もちろん病気や老齢のために教会に行けないのだと割り切ればそれまでだが、置かれている立場の人々の気持ちになってみれば、わたしは申し訳ありませんと言いたい気持ちになった。わたしは皆さんにクリスマスを教会で迎えさせてあげたいけれども、その力がりません。本当に力が及ばず、申し訳ありません。
▼ある人は、定期的な訪問より少し前に、口から食べ物を受けられなくなっていた。わたしはその人に「ごめんね。今日はご聖体を授けてあげられないみたい。それにとても苦しそうだから、念のため病者の塗油を授けておくね」と声をかけて病者の塗油を授けて帰った。
▼きっと、1週間前とかだったら、最後のご聖体を受けることができていたかもしれない。本人も、司祭が目の前にいながら、ご聖体を受けられないのはどれほど悔しいことだろう。そんなことを思いながら病者の塗油を授けていたら、本当に涙があふれてきた。
▼ご降誕の説教のどこかに、そのことを織り込んで説教しようと、その場で決意した。教会に来ることができた人々は、教会に行くことができず悔しい思いをしている人のことを思い出してほしい。知り合いにクリスマスに教会に行けない状態の人がいるなら、クリスマスの喜びを届けに行ってほしい。そのためにわたしができることがあれば、何でも言ってほしい。

† 神に感謝 †