年間第24主日(ルカ15:1-32)

年間第24主日に選ばれたルカ15章は福音記者が最も伝えたい神のいつくしみとあわれみの姿です。「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえいずれも味わい深い朗読ですが、その中で「見失った羊」のたとえについて取り上げてみたいと思います。

わたしは説教のはじめ、この一週間で起こったことに触れておりますが、どこから話そうかと思うほどこの一週間話したいことがありました。広島カープは優勝(目前)ですし、この前のナイターソフトボールも聞いてちょうだいという気分です。

でも、広島カープからでしょうか。12球団で最も優勝から遠ざかっていましたが、とうとう優勝しました。プロ野球の話題ではカープファンのわたしはいつも「まないたの鯉」のような心境でしたが、今年はすべてのうっ憤を晴らしてくれました。応援し続けたかいがありました。

もう一つ、先週のナイターソフトもうれしい勝利でした。チームの投打がかみ合って5回コールド勝ちしたのですが、その中でわたしは3打数3安打、1本は火の出るような2塁打をかっ飛ばしました。その晩は司祭館に戻っても火の出るようなヒットの感触が残っていまして、自分へのご褒美に焼酎のロックを作ったのにいつの間にか手の中でお湯割りに変わっていました。ちょっと言いすぎました。ごめんなさい。

さて福音朗読ですが、今年は「見失った羊」のたとえを取り上げてみたいと思います。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(15・4)日常生活で持ち物がなくなったり、割れてしまって捨てたり、期限が切れて処分したりする生活をしていると、百匹の羊のうち一匹を見失って、九十九匹を野原に残して捜し回るというのはリスクが大きすぎるように思います。

野原に残した九十九匹は、羊飼いがその場を離れれば守ってくれる人は誰もいないわけです。それはそれで危険だと思います。もちろん見失った一匹も、主人に見つけてもらうまで命を危険にさらしているのですが、羊の数から言えば、守るべきは九十九匹ではないかと思うのです。

しかし神のなさり方は人間の理解をしばしば超えます。神は常識を覆してでも「見失ったもの」を捜す方なのです。イエスが語ったのはたとえ話ですが、言いたいのは神が人間に対してどのように思っているかです。羊飼いが羊を一匹でも失いたくないと思い、捜し回るのであれば、まして神は、人間を一人でも失いたくないとの思いで捜し回るのです。

もし羊飼いが、本来とどまっているべき場所から離れてしまった羊を気に留めず、声もかけず捜し回らなかったとしたら、その羊の運命はどうなるのでしょうか。きっと生きていくことはできないでしょう。それはわたしたち人間も同じことです。

わたしたちは何度も罪を犯し、本来いるべき神との親しさから離れます。罪を犯したわたしたちをもし神が気に留めず、声もかけず捜し回らなかったとしたら、わたしたちに今があるのでしょうか。罪を犯した人間は自分の力では罪を赦して神のもとに立ち帰ることはできないのですから、わたしたちはとっくに死んでいたでしょう。

「見失った羊」のたとえを「放蕩息子」のたとえと読み比べながら考えると、もう一つ呼びかけがあるかもしれません。野原に残された九十九匹は、自分たちが羊飼いのもとにいるだけでも有り難いことなのだと忘れてはいけないということです。自分たちが羊飼いに守られているのは当然で、水を飲ませてもらい、牧草を食べさせてもらうのは当然だと思っているなら、それは思い違いというものです。

同じように、父なる神のもとにとどまり、そこから一歩も離れたことがないという自負がある人は、神の保護のもとに置かれるのは当然であってわたしを養ってくださるのも当然だと言い張るなら、それは思い違いではないでしょうか。父なる神のもとにとどまっていると思う人も、常に感謝の気持ちを忘れてはならないのです。そして仮に本来の場所から離れてしまった人がいても、その人を裁いたり見下したりすることがあってはならいのです。

わたしは週に一度、修道院にミサをしに行きますが、その日は修道院のお世話で夕食をいただいてきます。食事が用意される部屋にはジグソーパズルで作成された大聖堂の絵が飾られています。見事だなぁと思うと同時に、このパズルのピースが一つ欠けていたらどういう扱いになるだろうかと考えたのです。

わたしが製作者であったら、どんなに目立たないワンピースであっても、「これでは飾れない」と思うでしょう。置かれるべき場所にすべて置かれて完成だと思いますから、99%問題なくても飾らないと思います。たった一枚のピースがなくて、残りのすべてのピースが埋められていても、製作者にとっては受け入れられないように思うのです。

「見失った羊」のたとえも同じかもしれません。羊飼いにとって、見失った一匹の羊は、羊飼いの日常という一枚の絵を完成させるために、無くてはならないものなのです。残りの九十九匹も、見失った一匹が戻ってきてようやく日常生活を取り戻せるのです。

それ以上に神は人間を心配してくださいます。ほとんどすべての人が神との親しさの中にとどまっていても、神から遠ざかった人が一人でもいるなら、その状況は受け入れられないのです。もしその一人が滅びてしまうなら、父なる神の悲しみはたとえようもないのです。

わたしたちも、神の思いを知って生活したいと思います。パズルのワンピースが欠けた状態を、わたしが引き起こしているなら、父なる神は毎日胸を痛めていると知りましょう。あるいは、欠けたピースの隣のピースかもしれません。もしそうであるなら、捜し回っている神に協力しましょう。そして見つけ出すなら、教会全体で喜びたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼わたしの名前は「こうじ」と言う。なぜ「こうじ」かと言うと、父親がカープファン、その中でも「山本浩二」の大ファンだったそうだ。第一子が生まれたら、その子を膝に抱いて「こうじ頑張れ!」と言って声をかけたい。そのためにわたしは「こうじ」と名前を付けられたそうである。
▼漢字は「輝次」で、読みは「こうじ」。ふつうには読めない当て字である。「てるじ」とか「てるつぐ」とか、さんざん言われてきた。最近では「時間帯によって右折禁止」という区間を右折して取り締まりの警官につかまり、「てるつぐですか?」と言われた。「どうでもいいです」と返事した。
▼父親の名前が輝明(てるあき)で、「その次」という思いで「輝次」と付けたのかもしれない。漢字は自分の名前を一字使い、読みは大ファンであった「山本浩二」から取った。なんとも欲張ったものである。
▼父親の膝に抱かれて「こうじ頑張れ!」と言われ続けた少年は、いつしか広島カープの選手を見ながら野球を知るようになった。41年前に初めて優勝したそうだがその時の記憶はない。25年前は大神学院の最上級生で、テレビのチャンネル選択権があり、堂々と日本シリーズを応援した記憶がある。最後は大野が投げ、達川が捕球して日本一となった。
▼それ以外は日の目を見たことがない。よく言われる「キャンプで練習しすぎて、鯉のぼりをあげるころには失速する」というのは本当の話だ。カープファンはマナーが悪いとか、広島で屋台に入り、カープの悪口を言っていたらどこからともなく殴られたとか、いろいろあるらしい。
▼そんな辛酸をなめた時代があるから、25年ぶりの優勝は堪えられない。今日と明日、カープセ・リーグ優勝を祝うために、夜の来客にはビールをごちそうする予定だ。今のうちに買い出しに行ってくるか。

† 神に感謝 †