年間第23主日(ルカ14:25-33)

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(14・26)弟子の条件として示されたこの招きは一瞬ぎょっとするものです。誤解を解いてから、今週の学びを得たいと思います。

ようやく日曜日の「聖書と典礼」がすべて大判になりました。これなら多くの人が手にとって利用してくれるでしょう。これからは「字が小さいから使わない」とは言えなくなりました。わたしなんか目をつぶってでも読めます。この取り組みが、典礼の奉仕により多くの人を参加させるきっかけになればと思います。

しかし費用の負担は頭の痛いところです。3ヶ月に1回請求書が来ます。これまでの小型版での請求は47500円でしたが、一気に7万円以上になると思います。50円のお賽銭を入れている人はぜひ・・・何を言いたいかは汲み取ってください。

ところでお気づきかと思いますが、聖書と典礼の朗読聖書にはすべて振り仮名が振られています。これは、「わたしは漢字が苦手で、小さい文字は読めません」と言って典礼奉仕を断らないための予防線です。

ミサの様子を見ていて、「この人ずっと聖書を読んでいるなぁ」と思うことがあります。頼みづらくて、同じ人がずっと引き受けているのだと思いますが、これからはぜひ「聖書と典礼は大判になったし、神父さんもより多くの人が典礼当番をしてほしいと言っているから、引き受けてください」といろんな人に声かけてください。お願いします。

福音朗読に戻りましょう。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(14・26)「憎む」という言葉がどうしても引っかかると思います。この「憎む」を誤解しないで読む必要があります。

エスが活動した地域で使われていた言葉は、アラム語と言ってヘブライ語の系統の言葉でした。日本語では「憎む」と訳されていますが、使われていた言葉の特徴を踏まえて考える必要があります。すると、次のようなことが考えられるそうです。

(a)ヘブライ語には比較級がないため、「より少なく愛する」と言う代わりに「憎む」を使うそうです。すると意味は「より少なく愛する」となります。(b)ヘブライ語の「憎む」には「放棄する」とか「脇に置く」の意味があるそうです。両方を考え合わせると、家族や自分の命のために弟子の覚悟が鈍るようなことがあってはならないとの呼びかけととることができます。

「より少なく愛する」という解釈を取るなら、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(14・27)という招きは、はるかかなたの理想ではなく、生活の身近な場所で実行できる招きとなってきます。家族、自分の命、自分の持ち物など、身近な場所で「イエスの弟子としてついていくために、より少なく愛する」という生き方は可能ではないでしょうか。

同じ時間に、いくつかの用事が重なれば、どれかを優先し、どれかを後回しにしなければなりません。その時「自分の十字架を背負ってついて来る者」となるために、より少なく愛するものが見えてきます。わたしたちは、今の生活の中で、何かをより少なく愛するようにすることで、「自分の十字架を背負ってついて来る者」となるのです。

9月4日、バチカンマザー・テレサが列聖されます。2003年に列福された時も、死後5年という慣例を飛び越えて列福調査が始まり驚きましたが、今回の列聖も異例の早さでした。わたしが説明するまでもないですが、マザー・テレサはインドのコルカタで死にゆく人々のために生涯をささげ、希望のない人に希望を与えたのでした。

彼女の生き方には、イエスの弟子としての覚悟がすべて込められていました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」彼女は晩年健康を害してしまいましたが、自分の命よりも見捨てられた人、誰も頼る者のない人を優先したのです。

彼女の有名な言葉があります。「どんな小さいことであっても、大いなる愛を込めておこなうことは、人に喜びを与えます。そして人の心に平和をもたらします。何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるか。それが重要なのです。」わたしたちはマザー・テレサの言葉に倣って生きるなら、どこにいてもイエスの弟子であり、どんな生き方でも「自分の十字架を背負ってついて来る者」となれるのです。

エスの弟子として生きるためには、どうしても何かをより少なく愛する必要が出てきます。わたしは、何をより少なく愛してイエスの弟子としての覚悟を示すことができるでしょうか。「まず腰をすえて」考えてみることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼小学生のまっすぐな気持ちは眩しいくらいに感じる。8月31日朝のミサ。「夏休みの思い出の絵をあげる」と持ってきた。画用紙一杯に、わたしがミサをして、そばで本人が侍者をしている祭壇の様子が描かれていた。
▼「夏休みの宿題に出そうと思ったけど、別の絵を出すことにしたから、これはあげる。」そういうことだった。この絵を学校に提出しても、学校の先生は夏休みのどの部分を切り取った絵なのか分からないに違いない。確かに、別の絵を提出したのは賢明だと思う。
▼それにしても、「夏休みの思い出」がミサの場面というのは、わたしは名誉なことだが、ほかにないのだろうかと思ったりもする。もちろん、本人が「この場面が今年の夏休みの思い出の場面だ」と考えているのだからそれは尊重する。きっと、この夏のいちばん貴重な時間が、朝のミサで侍者をした日々だったのだろう。
▼ミサの時間を大切な瞬間ととらえる思いは、いつまでも大切にしてほしい。できればこの思いを、神様の呼びかけととらえて、祭壇近くで奉仕する生き方に招かれてほしい。田平教会はまぁまぁ子供がいるのに司祭や修道者の召命が途絶えてしまっている。この子が召命の糸を再びつなぐ子供であってくれたらどんなにうれしいことだろう。
▼イエスは、魚が何も獲れなかったシモンに声をかけ、不思議な大漁を経験させた。何か獲れていたなら、シモンには声をかけていなかったかもしれないと思っている。そう考えると、召命がゼロとなった田平教会には、今こそ声をかけてくださるのかもしれない。

† 神に感謝 †