年間第15主日(ルカ10:25-37)

年間第15主日C年の朗読として「善いサマリア人」のたとえが選ばれました。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(10・37)と呼びかけます。きっとそれは、わたしたちにも向けられた言葉です。どのように理解し、消化すべきか、考えることにしましょう。

参議院議員選挙投票日となりました。国民の義務を果たすため、確実に一票を投じに行ってください。ちなみにわたしは期日前投票をしに新上五島町に行ってきました。選挙区選挙の投票用紙には3人の候補者のうちの1人を投票しました。比例代表選挙の投票用紙には「ん党」と書いて出してきました。皆さんの想像にお任せします。

福音朗読は「善いサマリア人」のたとえです。わたしは皆さんの期待を裏切るような話から始めようと思っています。「善いサマリア人」は滅多に現れない。わたしの経験から学んだことです。それを物語る2つの経験を紹介します。

わたしは以前、スズキの250ccKATANAに乗っていました。当時は今以上に運転技術が未熟でしたが、このバイクにどうしても乗りたくて普通自動二輪免許を取りに行った手前、乗りこなせないのは承知の上で、KATANAを乗り回していました。都合6年くらい乗ったでしょうか。

このバイクでわたしは二度転倒事故を起こしました。一度はいわゆる「立ちごけ」です。これは大した怪我ではなかったのですが、もう一度は道幅の狭い下り坂で砂にタイヤを取られてのスリップ事故でした。バイクは道路脇の溝にはまり、想像がつくと思いますが、すねから太もも、腰にかけて思いっきり擦り傷を負いました。

事故は司祭館からKATANAで出発し、峠を越えてあと少しで国道に出ようとする場所で起きました。このとき後ろから、パジェロがずっとついてきていたのです。司祭館を出た直後からついてきていたので、おそらく教会の信者だったと思います。砂にタイヤを取られ、転倒して溝にはまった時、「痛い」より「恥ずかしい」という気持ちでした。

わたしのすぐ後ろをついてきていたパジェロはどう思ったでしょうか。減速して、そーっと脇をすり抜けてしまいました。声もかけてもらえませんでした。わたしもいつまでもそこにいたくなかったので何とか起き上がり、エンジンがかかることを確かめてから、溝から引きずり出し、この後どうするかを考えたのです。その間あと一台見知らぬ車が素通りしました。とうとう「善いサマリア人」は現れませんでした。

もう一つの例は、溝にはまっている車をわたしが目撃した体験です。当時わたしが赴任していた教会はつづら折りの坂を下りて行った谷底のような集落にある教会でした。その日は大雨で、車のワイパーをすごく早く動かしながら運転していました。また月夜間の期間でもあり、遠洋漁業の仕事から帰ったお父さんたちで賑わっている時期でした。

その日の朝、巡回教会のミサを終え、いつものように上の道路から谷底の集落の教会へと帰る途中、一台の軽自動車が道の脇で止まっていました。大雨の中、タイヤを溝に落として身動き取れずにいたようでした。わたしは運転手を見ませんでしたが、こう考えたのです。

「あー。誰かお父さんが前の晩に一杯ひっかけて運転して、操作を誤ったか。かわいそうに。」ここで車を降りて動けなくなっている人に近づいていれば、わたしは「善いサマリア人」になれたはずです。ところがわたしは、「まぁ、誰か船の友達が助けに来るでしょう」そう考えてそのまま立ち去ったのでした。

ここで話は終わりませんでした。司祭館の賄シスターの報告で急展開します。賄シスターがこう言うのです。「いやぁ、参りました。この大雨の中、タイヤを溝にはめてしまい動けなくなったんです。どうしようかなぁとじっと待っていたら、船員さんが声をかけてくれました。その人はすぐ仲間の船員さんたちを呼んできて、たった今助けてもらいました。」わたしはその場を通りかかったとは言えませんでした。

結論を申し上げますと、「善いサマリア人」はそうやすやすとは現れないのです。わたしが困難にあえいでいた時、すぐ後ろからついてきていた人、しかもおそらく当時赴任していた教会の信者が、素通りしていったのです。反対にわたしが「善いサマリア人」になれるチャンスが巡ってきたときは、「誰か仲間が助けてくれるでしょう。」そう言って助けようとしなかったのです。

しかしこれで終わったのでは、イエスのたとえは何の意味も持ちません。イエスは最後に「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(10・36)と問いかけ、正しい答えを選んだ律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい。」(10・37)と言われたのです。この「行って、あなたも同じようにしなさい」は、当然わたしたちにも向けられているのです。

現実には、「善いサマリア人」は滅多に現れません。統計上もそうです。日本全体でカトリック信者は100人に1人しかいないのです。車が100台通って、やっと1台巡ってくる確率なのです。だからこそわたしたちカトリック信者は、その「滅多に現れない『善いサマリア人』」であるべきです。

アパートに住んでいても、隣の人は誰なのか知らない。そういう時代にわたしたちは生きています。そんな時代にあって、わたしたちは滅多に現れない人、滅多にいない「報いを求めずに手を差し伸べる人」となりましょう。それこそが、聖書を開いて街頭で大声で叫ぶよりも、イエスキリストを確実に告げ知らせる効果的な宣教だと思います。

一人でも多くの人が、わたしの差し伸べる「報いを求めない手」を通して、イエス・キリストを知ることができますように。そのための力を、このミサの中で願い求めましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼転勤して初めて前任地の教会に行った。期日前投票を名目にして、釣りも楽しむためである。浜串では喜んで会いに来てくれる人がいて、懐かしさと、人のやさしさに触れた。お土産ももらい、いつまでも覚えてくれて心にかけてくれる人たちがいるのだと感心した。
▼前もってお願いしていた人にボートを海に浮かべてもらっていたので、ギリギリまで釣りを楽しむことができた。勝手知ったる、という感じの海で、イメージ通りの釣りができたが、マダイを釣ることはかなわなかった。最終的にイトヨリを10匹くらいと、その他の魚を釣っただろうか。
▼「レンタカーを魚釣りに利用しないでください」と、貸主からきつく言われていたので、せめて臭いを極力残さないようにと、釣りを終えてからすぐに司祭館に立ち寄り、着替えさせてもらい、道具類も手早く水洗いして、臭いがこもらないように注意した。ローカルルールなのか、レンタカーを借りる条件に「魚釣りの使用禁止」という話は初めて聞いた。
▼前任地に行ったのはもちろん釣りだけではない。在任中に終わらせることができなかった「故障した聖櫃を新しいものに入れ替える」計画が無事に終えているかを確かめるためだった。聖櫃は立派なものが納入され、聖堂内に設置されていた。三か月前までここにいたわけだが、新しい聖櫃の前にひざまずいてみると、やはり違う土地からやってきたような気分になった。

† 神に感謝 †