年間第14主日(ルカ10:1-12,17-20)

年間第14主日C年の朗読として、七十二人の任命と宣教活動への派遣の様子が選ばれました。今週のように福音朗読が長い形と短い形を用意しているときがありますが、わたしは、短い朗読の形では省略される七十二人が宣教から帰ってきて報告し、イエスがさらに言葉をかける部分に注目したいと思います。

田平小教区で初めての霊名の祝いを迎えることができます。「霊名の祝いを迎える主任神父さまのために祈りましょう」という声を聞くたびに、何かくすぐったい気持ちを覚えながら、この日を迎えました。皆さまのお祈りに心から感謝いたします。病人訪問に出かけたときにも、「霊名のお祝いおめでとうございます」と声をかけてもらいました。

こんなに気にかけてもらい、本当に幸せだと思います。個人的にお祝いをくださる方もいらっしゃいました。これからの働きでお返しできればと思っております。なおわたしのポケットは若干の余裕があります。

新上五島町から、参議院議員選挙投票所への入場券が郵送されてきました。説明の紙には(1)当日新上五島町に投票に来るか(2)新上五島町期日前投票に来るか、(3)いろいろ面倒くさい手続きを新上五島町にお願いして投票用紙を郵送してもらい、近くの投票所で不在者投票をするか、いずれかにしてくださいと書いてありました。

長崎教区の司祭たちは基本的に面倒くさいことを嫌う人種です。不在者投票を田平でするための手続きを新上五島町に申請するくらいなら、浜串生活館の投票所に投票に行ったほうがおもしろそうだなとわたしは思いましたので、火曜日に期日前投票のため五島に行くことにします。

予定では火曜日午後のフェリーに乗るのですが、せっかく五島まで行くのに投票所の紙一枚だけ手に持っていくのはあまりにももったいない。ということで、釣り竿も持って五島に行ってこようと思います。ただし五島で魚が釣れたら、実家に置いて来るつもりです。

福音朗読に戻りましょう。長い朗読の形では、七十二人が喜び勇んで宣教から帰ってくる様子が描かれています。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(10・17)驚くような体験をしてきているので、イエスに報告したくてたまらないという雰囲気が伝わってきます。

七十二人はイエスが「そうかそんなことがあったか。それは見てみたかったなぁ」こんな迎え方をしてくれるものと思っていたでしょうか。思っていたかもしれません。しかしイエスは、この弟子たちの興奮から少し距離を置いて話しています。

「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(10・20)どんな華々しい奇跡よりも、名前が天に記されていることを喜べと言うのです。天の父に名前が記憶されていることが、何より大事だということです。

先週わたしは広島に行き、引退してすでに名誉司教となっておられた三末司教さまの葬儀ミサに参列してきました。もともとは野球観戦のためにこの日を押さえていたのですが、不思議なめぐり合わせで名誉司教の葬儀ミサにも参列することができました。

大阪教区大司教の前田司教さまが葬儀ミサの主司式を執り行いました。説教は三末名誉司教の人柄をしのばせるすばらしいものでした。その中で「神のなさることは時にかなって美しいと言うけれども、本当だなぁ」と思わせるエピソードを紹介してくださいました。

三末司教さまがお亡くなりになったのは6月28日未明です。その2日前、6月26日にフランシスコ教皇さまは、広島教区の次の司教として白浜 満師を第七代の教区長に任命されました。そして、その通知は日本におられる教皇大使を通して、手紙で三末名誉司教にも届いていたそうです。

28日名誉司教が亡くなり、部屋に入ってみると、次の教区長が決まったという手紙が、開封されて机の上に置かれていたのでした。つまり引退された三末名誉司教は、後継者が決まったことをその目で確認して、安心して神さまのもとに旅立ったわけです。

神さまのご計画は、筋書きのないドラマだと思います。いつ後継の司教さまが指名されるか、いつ名誉司教さまが天に召されるか、誰にもわかるはずがありません。それなのに、確かに後継の司教さまを見届けて、名誉司教が旅立った。司教叙階という恵みによって天にその名が記されている人々だからこそ、起こる出来事なのだと思いました。偶然そのようになったのだと説明するには、あまりにもでき過ぎた話だと思ったのです。

わたしたちの人生で確実に喜ぶことのできるものは本当に限られています。給料が上がったと喜んでいても、次には半分の給料を提示され、しぶしぶ受け入れなければならないかもしれません。目の前に起こる出来事は、生じては消え、絶えず流転していくのです。

そんな中にあって、わたしたちが洗礼によって堅信によって叙階によって、一度天にその名を刻まれれば、その喜びは決して奪われることがないのです。今日わたしが霊名のお祝いを受けているのも、わたしの霊名が、天に記されていることを皆さんに喜んでもらっているのだと思います。

「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」秘跡は、皆さんの名が天に書き記される確実な体験です。この世でどれだけのことを残したり成し遂げたりしたかを喜ぶよりも、秘跡によって自分の名前が天に記されたことを喜ぶ人となれますように。このミサの中で恵みを願ってまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼土曜日。一日のうちに面白いことがいくつも重なった。朝9時、太田尾(大島崎戸)時代の信徒からの電話があり、「どうしてる?観光バスの運転手をしていて、今日そっちに行くからね。船にはなかなか乗れてないだろう?」とねぎらってもらった。
▼その10分後、田平の信徒から「釣りが好きで、船に乗るなら、わたしの船を今日見に行かないか?」という電話。「渡りに船」とはこのことだ。「喜んで見せてもらいます」と返事をして、午後から船の視察に行く約束をした。
▼その10分後。前任地の浜串に今度はわたしから電話。「期日前投票を名目に釣りに行くので、○○さんにお願いして船を降ろしてもらってほしい。」「いいですよ。」これで選挙以外にも五島に行く楽しみが増えた。家族の顔を見て、浜串の人たちの顔を見ることにしよう。
▼7月3日が聖トマスの霊名の祝い。わたしは2日に子供たちから前祝いを受け、顔が緩みっぱなし。50歳にもなると小学生は孫のようなものだ。目に入れても痛くないと言うらしいが、さすがにそこまでは感じなかった。

† 神に感謝 †