年間第13主日(ルカ9:51-62)

今週の福音朗読は「弟子の覚悟」を問う場面が選ばれました。神の救いのわざを目の当たりにした人にイエスは覚悟を求めます。わたしたちもイエスの求めに答えることにしましょう。

最近司祭館で食器が見つかり、騒ぎになりました。わたしの歓迎会の日の晩、何人かのお父さんたちが司祭館に寄って、コップとか急須とかを使って帰ったのです。わたしは後片付けの様子を見ませんでした

水曜日に賄いさんが来てこう言ったのです。「いつも使っている急須がありません。どこに仕舞いましたか?」「知らないよ。」賄さんはわたしを疑っています。「そう言えば歓迎会のあとに食堂を使ったなぁ」と身の潔白を証明するのですが、それだけの数のコップや急須が消えるはずがないと、ますますわたしへの疑惑が深まっていました。

先週です。賄いさんが急須やコップが見つかったと報告してきました。なんと食洗器の中に2ヶ月、ずっと置いたままだったのです。わたしはこの2ヶ月白い目で見られたことを謝ってほしい気分でしたが、それにしても台所の食洗器を開けなかったのには驚きました。

聞くところによると食洗器は6年間使ってないそうです。「急須行方不明事件」が発生したおかげで食洗器が使えるのだと分かり、賄さんは急須ほかを食洗器に入れて帰ったお父さんたちに感謝しております。

伊万里マリーナでお金を払ってボートを借り、一人で伊万里湾を荒らしてきました。場所の見当を付け、タイラバでの釣りもしてみました。初めは小アジと間違えそうなサバがかかり、当然リリースすべき大きさでしたが、お金払ってボート借りて、もしもこれ一匹だったらという恐れがあったので、リリースしませんでした。

最終的にはスズキとコチも釣りました。スズキは竿がしなりまして、「オレの腕で釣れないはずがなかろうもん」とここまではよかったのですが準備が悪かった。タモ網を持って行ってなかったためにバラしてしまい、手元に残ったのは手のひらくらいの鯛2匹と小アジくらいのサバ2匹でした。もっと腕を上げてからまた報告します。

福音朗読に戻りましょう。イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(9・57)と言う人がいました。イエスの答えは、この人に対してだけではなく、従っている弟子たちにも言っているものだと考えるべきでしょう。

エスがこの人に答えたのは、どんな生き物にも神が用意してくださった安らぐ場所があるけれども、わたしとわたしに従う者たちには安らぐ場所は期待してはならない、そんな厳しい宣教の旅であるということでした。すでにイエスに従っていた弟子たちにとっても、身の引き締まる言葉だったしょう。

また別の人にイエスが「わたしに従いなさい」と呼びかけると、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と条件を出してきました。家族の葬りは、何を置いても優先される出来事のはずです。従っていた弟子たちも、「それは致し方ない」と考えたことでしょう。

しかしイエスの宣教活動は一刻を争うものでした。イエスが救い主であると気付いた人は、父の葬りも理由にならないのです。家族の中でイエスが救い主だと理解できている人が自分一人であるならば、父の葬りはその他の家族に任せよ、そこまでの覚悟をイエスは求めるのです。

何かのプロフェッショナルを自認している人は、しばしば家族の最期に立ち会うことができないと言います。例えばプロスポーツ選手がそうです。そして家族も、家のことにかまっていないで、プロとしての仕事を立派に果たして欲しいと願うそうです。イエスに生涯を委ねた人は、その道のプロフェッショナルですから、イエスの招きを最優先するのです。そして家族もその選択を応援してくれるはずです。

また、別の人も言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(9・61)この願いも譲れないように聞こえます。弟子たちにも家族のいる者がいたでしょう。イエスはどのように答えるだろうか。注目していたのではないでしょうか。

エスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9・62)と言われました。このイエスの答えを思い出させる面白い話を聞かせてもらいました。

長崎の神学校でお世話になった小島神父さまに、引退後聞いた話ですが、ある親子が神学校の入学式に臨むために長崎に出かけていきました。両親は親元を離れるわが子が、きっと不安でたまらないだろうと心配して付き添っていたのですが、建物の一階で無事に入学式を終えると、生徒は勉強部屋や小聖堂のある二階に上がっていきます。

その子は二階に上がるときに両親にこう言ったそうです。「入学式が終わったから帰っていいよ。」そう言って一度も両親を振り向くことなく、同級生や先輩たちと二階に上がっていきました。ちょっとくらい後ろを振り向くかと思っていた両親はガッカリして帰ったということです。彼が無事に司祭になったのか、その後のことは分かりません。

神学院に入学したこの新入生は、ルカ福音書の今日の箇所を知っていたのでしょうか。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9・62)知らなかったかもしれません。けれども、後ろを振り向くことも忘れるほど、入学式の中でイエス・キリストと出会ったのだと思います。神との出会いが強烈であればあるほど、自分の前を歩くイエスに引き寄せられていくのではないでしょうか。

誰もが、父母を持っています。誰もが家族を持っています。けれども福音宣教において大きな実りを得るためには、後ろを振り向くのを忘れるほどイエスに引かれて行く人が必要なのです。イエスをまっすぐ見つめてついて行く司祭になってみたいという子供たち、シスターになってみたいという子供たちが必要なのです。田平教会に手を挙げてくれる子供たちがいるなら、わたしは最後まで応援します。

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ちょっとひとやすみ
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ゆうちょダイレクト。利用している人もいるかもしれないが、送金機能が重宝する。直接郵便局に行く必要もないし、ATMに設定されているような送金限度額を気にする必要もない。最近ゆうちょダイレクトに頼りっきりなのでよく知らないが、ATMによる送金限度額は10万円程度ではないか。
▼少なくとも長崎教区では、「教区費」というものを小教区から振り込む必要がある。教区費は中規模の小教区ともなれば月額10万円はすぐに超える。通常は窓口からの送金になるわけだが、主任司祭は面倒くさがり屋が多いわけで、年間12回も窓口に送金のお願いに行きたくはない。
▼ほかにも教区への送金が必要なものがいろいろある。年に6回の特別献金(例えば「聖ペトロ使徒座への献金」)、厚生年金の掛け金、司祭年金、聖職者費。さまざまあってそれを定期的に窓口送金、ATM送金いずれかで処理するが、少なくともわたしは「面倒くさい」と感じる。
▼そこで「ゆうちょダイレクト」だ。パソコン上で処理が完了する。振り込み用紙のように毎回払い込み人の住所氏名を書く必要もない。「振り込みに行かなきゃ。しまった、もう午後4時過ぎた!」このように時間に縛られることもない。基本的に面倒くさがり屋の長崎教区司祭にはぴったりだと思っている。
▼実は「ゆうちょダイレクト」機能が、どんな通帳に付加できるのかを調べたり尋ねたりしたことがなかったので、これまでは個人の通帳に付加していたゆうちょダイレクトで送金し、適当なタイミングで送金した分を教会名義の通帳から引き出していた。
▼ところが近くの郵便局窓口で思い切って尋ねてみると、説明すらなく、「この申込用紙で申し込んでポストに投函してください」という返事だった。説明くらいしてくれてもいいのにと思ったが、結果的に「カトリック○○教会」名義の通帳でも問題なくゆうちょダイレクト機能が付加できることが分かった。
▼一つ問題があるとすれば、教会名義の通帳は数年経てば代表者が変更になるということだ。今はわたしが代表者になっているカトリック田平教会名義の通帳だが、代表者が代わったら、ゆうちょダイレクトの変更届が必要になるだろう。ずっと先だが。

† 神に感謝 †