年間第12主日(ルカ9:18-24)

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」ペトロの信仰告白が今週取り上げられました。ペトロは立派な信仰を言い表しましたが、それは十分だったのでしょうか、わたしたちも信仰の心構えを学ぶことにしましょう。

最近は無理ができなくなりました。1日1つ仕事を入れると、疲れてそれ以上はまともな仕事ができない日が出てきました。昔は3つ4つ会議を入れても平気だったし、日曜日に一番ミサ二番ミサ、結婚式、飛び込みでの納骨、評議会と重なったとしても平気だったのです。

ところが先週水曜日、平戸地区の司祭会議に午前中出席し、昼過ぎに帰ってきたら、ぐったりして何もする気が起こらないのです。どうしようもなかったので畳に大の字になってウトウトしていたら玄関のチャイムが鳴りました。郵便配達員でした。荷物の受け取りにやっとの思いで玄関に立つ有様です。以前と比べて粘りがなくなったと思います。

皆さんも経験されたことがあるかもしれませんが、「口だけは達者」という人がいます。物を運ぶ力もない、足もおぼつかない、けれども言うことだけは人の何倍も元気だという人を見たことがあるかもしれません。そこから見えてくるのは、「言うのは簡単だ」ということです。

福音朗読では、イエスが弟子たちに問いかけています。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(9・20)まずは言葉で、ご自分のことを何者だと考えているかを尋ねました。弟子たちは、どんな言葉でも選ぶことができました。言うだけであれば、どんな言い方もできたわけです。

そんな中で、ペトロは立派な言葉でイエスへの信仰を表しました。「神からのメシアです。」(9・20)これ以上ない、満点の回答でしょう。ただし、ペトロの答えは試練をくぐって清められる必要がありました。鉄が、火で精錬されて鋼になるように、ペトロの信仰、ペトロの言葉は、苦しみという炎を経て揺るぎないものに変えてもらう必要があったのです。それがイエスの死と復活の予告でした。

言葉だけの絆ではなく、苦楽を共にした人の絆は強いものです。「愛しているよ」と一日20回言葉をかけることも夫婦の絆かもしれませんが、言葉数よりも共に苦しみ、共に喜び合う夫婦の絆のほうがより強いはずです。

そのように、イエスは弟子たちに言葉だけが踊っている信仰ではなくて、苦しみを経て精錬された信仰を求めるのです。ペトロは苦しみを経て初めて、自分が口にした信仰「神からのメシアです」が本物に高められていくのでした。

エスご自身予告した通り、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する」(9・22)お方です。ペトロは弟子の頭でありながら、三度イエスを知らないと言い、十字架のもとにとどまることもできませんでした。弟子を代表して「神からのメシアです」と答えたのに、受難と死の予告にさえしり込みしたのです。

ペトロの信仰は十分立派なものでした。しかし言葉で表した信仰は、苦しみを経て精錬され、完成される必要がありました。事実ペトロの信仰はイエスの死と復活によって完成されたのです。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」とも言ったペトロの信仰は、イエスの受難と死という現実に苦しみ、苦しみを経て完成されたのです。

わたしたちの信仰はどうでしょうか。自分の信仰を言葉で言い表すことができるかもしれません。自分も含め司祭たちは叙階の記念に用意した御絵に、しばしば聖書の言葉を引用します。わたしは2通り用意しましたが、そのうちの1つは使徒言行録でペトロとヨハネが宣教活動しないように脅された時に発した言葉です。

「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使4・20)どんなに苦しくても、行き詰まっても、見たこと聞いたことを話さないではいられない。わたしもそう考えています。選んだ言葉は、逆境を経て、司祭としての苦しみを味わって、本物になりました。

それぞれが、約束した言葉や誓いの言葉を持っているでしょう。結婚した人々は、「生涯互いに、愛と忠実を尽くすことを誓います」と声に出して誓いました。言葉それ自体も素晴らしいと思いますが、夫婦が苦しみを通った時、重みは増してくるわけです。

また洗礼を受けた人は「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けています。「洗礼を受けると神の命をいただきます」そのように信仰を表明すれば、なぜ日曜日ごとにミサに行くのですか、なぜ十字架にはりつけにされたキリストを信じるのですかと洗礼を受けていない人に事あるごとに聞かれ、答えに苦しみ、逃げ出したくなることもあるでしょう。けれども、そうした苦しみを経て初めて、わたしたちの信仰は金銀よりも価値あるものに変わる、火で試されて清められるのです。

苦しみの先に、命があります。わが子を産んだお母さんは皆、そのことをご存知です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(9・23-24)日々の十字架という苦しみを経て、イエスの言葉はわたしたちに命をもたらす言葉となります。

言葉だけの絆ではなく、苦しみを経て初めて知ることのできる命の絆をイエスと保つべきです。この命、この絆は、日々の十字架を背負うすべての人に保証されています。希望をもって生きてまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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東京都知事が辞職した。辞職した知事を見て、ふと松坂慶子さんの歌で替え歌が浮かんだ。「これも公務、あれも公務、たぶん公務、きっと公務。」わたしはあの知事がしぶとく居座ってくれたらなぁと思っていた。そうすればわたしが週に3回釣りに行っても「これも公務、あれも公務、たぶん公務、きっと公務」と言い張ることができたのになぁと、残念でならない。もちろんこの通り実行するかは別だが。
▼「火事と喧嘩は江戸の華」だそうだが、これに「選挙」も加えていいかもしれない。都知事選挙はいつも全国民が見守る首長選挙になっている。お金も相当必要だろうが、話題性と、今後の活躍次第では、お金に見合う実を結んでくれることも考えられる。そうであるなら、たとえ急な選挙でも、日本中の注目を浴びて堂々と選挙を戦い抜いた人が職務を担ってほしい。
▼そろそろ、前任地の浜串に顔を出してみようかと考えているところ。理由は2つあって、1つは漁港に係留して出て行ったボートのこと。どうなったかなぁとちょっと気になっている。聞くところでは今は陸揚げされて使うことのないまま保管されているらしい。後任に名義変更をしたのでボートの所有者はわたしではないが、わたしが使わないと誰も使わないらしい。
▼もう1つは、積み残しになっていた仕事のこと。新しい聖櫃が無事に浜串教会聖堂に納められている。この聖櫃をわたしは見ることなく出発してしまったので、ぜひこの目で見たい。だいたいの想像はついているが、この目で見ないとやはり安心できない。それにこの聖櫃のために寄付してくださった方々もいて、写真を準備してもう一度報告をしたいからだ。
▼だがいざ出かけるとなると緊張する。もう2ヶ月も経ったのでよそ者なのだが、気恥ずかしいという思いもある。できればボートを利用できるタイミングで浜串にお邪魔したいが、この時期の天気は気まぐれだ。果たしてどうなることだろうか。

† 神に感謝 †