年間第11主日(ルカ7:36-8:3)

今週の福音朗読は「罪深い女を赦す」物語です。罪が赦されるとはどういうことなのか、物語を通して学ぶことにしましょう。

先週の司祭叙階金祝記念ミサは皆さんの熱心なお祈りのおかげで、立派に終えることができました。萩原神父さまもとても喜んでおられ、帰りに皆さんへの感謝と、わたしへのねぎらいも添えてもらいました。ありがたいことです。次は何年後かに、浜崎神父さまのお祝いがあると思います。わたしはその頃には、次の神学生が誕生していればいいなぁと願っております。

さてこちらに赴任する前から飲み続けておりました薬が無くなったので、青洲会病院に薬を処方してもらいに行きました。この先は作り話なので落語だと思って聞いてください。高橋という内科の先生に一通り診察していただいて、聴診器を当てた時に「気管支炎の兆候があります」と言われました。

全く身に覚えがないと返事をしましたら、「最近、誰かの指示を無視したことがありませんか?」と聞かれ、「はぁ、ナイターソフトでコーチが三塁でストップ!ストップ!と言っているのを無視して二塁から一気にホームに帰ったことがあります」と答えました。
「それですよ、それ。」何のことですかと続けると、「それはですね、『言うこと聞かんし炎』という病気です。これからはコーチの指示に従ってください。いいですか?」わたしは返事をしませんでした。

最後に看護師が「先生、お薬を」と言うと先生が「第三の薬を処方しておきましょう」と指示を出すと、「先生、そのお薬はもう処方済みのようです」と看護師が答えたので「では第四のお薬を」「承知しました」というオチでした。九割がた作り話ですが、いかがでしたか。

福音朗読に移りましょう。物語に登場する女性は、「この町に一人の罪深い女がいた」と紹介されています。小さな町であれば、噂は誰もが知っていることでしょう。誰もが、その女性に冷たい視線を向けていたのだと思います。しかし女性は、そうした冷たい視線を一身に浴びながらも、イエスの足元にひれ伏しました。

エスはこの女性がどんな気持ちを表そうとしているのかご存知だったでしょう。後ろ指さされる生活をしてきた自分であっても、イエスの憐れみにすがることができる。どこかで彼女はそのことを知り、自分がすでに憐れみをかけてもらっていると感じ、感謝の気持ちを表しに来たのです。彼女の行動は、「今からこれだけのことをしますので、赦してください」という態度なのではなくて、「すでに赦してくださっていることに感謝します」という態度だったのではないでしょうか。

先週、萩原神父さまが今週の福音朗読を予感していたかのように、「ゆるしの恵みは、カトリック教会にしかありません。神が人の罪を赦すという驚くべき御業に司祭はたずさわります。こんなにすばらしい仕事はありません。」そう繰り返し語っておられました。赦しは、神のいつくしみの最も発揮される部分と言えるでしょう。神にしかできないいつくしみの業に、人間に過ぎない司祭が関わることができるとは、司祭職はなんとすばらしい道でしょう。

物語を進めましょう。食事の席を設けたファリサイ派の人は、イエスの姿に神のいつくしみを見たはずですが、彼はイエスに心を開くことができません。ファリサイ派の人にとって、罪深い女を近づけることだけでも許しがたい行為だったのです。罪深い人には近づかない。交わる人に線引きをして遠ざける。それが、みずからを宗教上の汚れに晒さない唯一の方法と考えていたからです。

ところがイエスは、罪深い女性が足元に飛び込んでくるのをお許しになったのです。「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(7・38)これは、彼女の罪がイエスのいつくしみによって洗い流され、ぬぐわれ、ついには赦された者として香りを放つようになる姿そのものだと思います。

ファリサイ派の人が神のいつくしみを全く理解しないので、イエスは例えを示されました。現代であれば、一方は250万円、他方は25万円くらいの借金かもしれません。「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」(7・42)彼は正しい答えを返しました。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(7・43)

人はなぜ、正しい答えを出せるのに、正しい行動が取れないのでしょうか。ファリサイ派の人は、イエスとお近づきにはなりたかったのですが、罪深い女のように足元に跪くつもりはありませんでした。女性が示した愛と従順を、正しい立派な行いですと認め、彼女と共にイエスの前に跪く。そこまでイエスに近づくことはできなかったのです。

なぜ正しい答えを出せるのに、正しい行動が取れないのでしょうか。それは神の恵みは無償であると認めないからだと思います。神は正しい人には恵みを与え、罪深い人には恵みを与えない。頭のどこかにそのような考えがあるから、正しい答えを出せても正しい行動が取れないのです。イエスによって明らかにされた「正しい人以上に罪人を憐れみ、いつくしみと恵みで覆ってくださる神」は、認められないのです。

わたしたちはどうでしょうか。罪深い女性の罪を覆うほどの神の赦しの恵みを、認めることができるでしょうか。認めることができないでしょうか。認めることができないかもしれません。教会の決まりから大きく外れている人が神さまの赦しといつくしみをもらうのは虫が良すぎると、思っているかもしれません。

エスは今日、わたしたちに「神の赦しは無償の恵みです」と示してくださいました。神さまが誰かの罪を寛大に赦してくださったとしても、正しいのは神さまであって、わたしたちではありません。洗礼・堅信・聖体・罪の赦しなど、神が与えてくださる無償の恵みを、わたしたちも心からたたえることができるよう、ミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼メインのパソコンを支えているハードディスクが故障を抱えているという結論に達し、ハードディスクのクローンを作成して換装した。作業はそう難しいものではないが、「いよいよ換装する必要があるな」と断定するまで無駄な時間を消費したと反省している。
▼きっかけは先月に遡る。パソコンにいつものように電源を入れるがマウスが反応しない。パスワード入力の画面に移るワンクリックができない。マウスがだめならと、キーボードのエンターキーを押すがこれも反応なし。
▼滅多にしないことだが、電源スイッチを長押しして強制的に電源を落とし、再起動するといつものように動いた。だからハードディスクの異常を見落としてしまった。この時点でハードディスクを疑っておけば、無駄なストレスを感じなくてもよかっただろう。
▼次に問題が発生したのは説教作成中だった。司祭館のチャイムが鳴ったので玄関に行って対応して部屋に戻った。するとパソコンがフリーズしている。「何だこれは?」首をひねったが、保存するにもマウスが動かない。だがある程度書いた原稿を取り戻せなくなるのは悔しい。それでも背に腹は代えられず、電源スイッチの長押し。強制的に電源を落として再度立ち上げる。
▼今回はワード2013以上の標準機能でバックアップされたものを利用できた。だがこうした不審なトラブル・ちょっと目を離した隙のフリーズが頻発するようになり、だんだんパソコンの内部を疑い始める。まず考えられるのはハードディスクだ。だがここでも、だましだまし使うことを選んでしまう。
▼しかしだましだましでもハードディスクが言うことを聞かなくなってきた。そのたびに強制的に電源を落とす。何回も繰り返せば、ハードディスクに傷がついても不思議ではない。週に何度かだったトラブルは1日に何度か起こるようになり、しまいには1時間に2度3度パソコンが凍り付き、電源を落とすようになった。
▼ここまできてようやく、「ハードディスクを換装するか」と決心する。デスクトップパソコンの側面のカバーを取り外し、ハードディスクを取り出し、容量が同じでまっさらのハードディスク(なぜこんなものがあるかを説明する暇はない)にそっくりクローンコピーして換装した。
▼今のところ問題なく動いている。だが用心に越したことはない。このパソコンは少なくとも7年は酷使してきたのだから、そろそろ買い替え時である。次はオールインワンのタイプか、あるいは最新のノートパソコンを探しておこう。オールインワンが欲しいな。

† 神に感謝 †