年間第10主日(ルカ7:11-17)

年間第10主日C年は、「やもめの息子を生き返らせる」という場面が選ばれました。この物語は、人間に対する神の特別ないつくしみを教えてくれます。神のいつくしみが人間のどのような姿に注がれるかを学び、お一人お一人、生活との結びつきを考えてみましょう。

わたしは現在、二つのボランティア団体に関わっています。一つは「カトリック点字図書館」です。点字という印刷物で目の不自由な方に情報をお届けするボランティアです。わたしは点字を読めませんが、自分のお小遣いで寄付を続けて、今も続いています。

司祭になり、浦上教会に赴任したとき、当時のカトリック点字図書館館長橋本宗明さんと後に館長になる高橋秀治さんが司祭館を訪ねて来ました。24年前のことです。この頃ようやく点字もパソコンでプリントできる時代になりまして、わたしは思い切って当時使用していたパソコンを寄贈しました。それが縁で、東京に出向いたときは今でもカトリック点字図書館に顔を出して帰るという付き合いを続けております。

もう一つは「声の奉仕会マリア文庫」です。こちらも目の不自由な方々へのボランティアですが、おもに書物や雑誌を録音して情報提供する団体です。出会ったきっかけは、マリア文庫が定期的に作成している月刊テープに、「宗教コーナー」として先輩神父さまがお話を提供していたのですが、後任に譲りたいということになり、マリア文庫の事務所からいちばん近い浦上教会で助任だったわたしに声がかかったのでした。関わりはその後ぐっと深まって、初代の代表でマリア文庫を25年引っ張ってくれたシスター野崎の後任として、現在は代表を務めています。

この二つのボランティア団体は別々の形でわたしを引き寄せたと思っています。東京のカトリック点字図書館は、ある意味何も働きかけはなかったのですが、わたしから心惹かれ、関わり続けています。寄付をしなければならない理由もありませんでしたが、寄付したいなと思ったのです。一方で声の奉仕会マリア文庫は、月刊テープ作成に協力してくれていた先輩神父さまが担当を降り、マリア文庫会員がわたしのところに来て、どうか手伝ってください助けてくださいとお願いされたので協力が始まったのです。どちらも手を差し伸べたことには変わりありませんが、きっかけはそれぞれ別のところにありました。

福音朗読に戻しましょう。ナインという町の門で、イエスは一人息子を亡くした母親に目を留めました。当時夫を亡くしたやもめの女性は働くすべもなく、とても不安な生活を強いられていました。さらに一人息子が亡くなったというのですから、彼女の置かれている状況は絶望的だったでしょう。町の人が慰めようとしていましたが、やもめの心を支えることはとてもできなかったはずです。

エスはこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」(7・13)と言われました。先にわたしが二つのボランティアのことを話して、一方は何も働きかけがなかった、もう一方は「手伝ってください助けてください」と言われて手を差し伸べたと言いましたが、ここにも同じ場面が描かれています。一人息子を亡くしたやもめは、イエスに何も訴えかけなかったのです。叫ぶことすらできないほど哀れな姿だったのです。しかし、「主はこの母親を見て、憐れに思った」のです。ここに、神の憐れみといつくしみの頂点があると思います。

つまりこういうことです。イエスに出会った人々は、「どうか憐れんでください」と叫び求めて、願いを叶えられた人々と、願いの声すら上げられず打ちひしがれているのをイエスが一方的に憐れに思い、手を差し伸べた人々とがいました。「助けてください憐れんでください」と訴えかけて願いが叶えられるのは通常のやり取りです。ここでも神の深い憐れみといつくしみが示されますが、神はさらに、何も叫ばなかった人、何も叫べない人にさえ、無償で憐れみといつくしみを示すのです。

参考までに、何も叫びを上げなかったのに神が手を差し伸べたと考えられる場面が福音書に三つあります。一つは今週の「やもめの息子を生き返らせる」物語「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(7・13)で、一つは「善いサマリア人」のたとえ「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」とあり、このサマリア人はイエスと受け取ることもできます。あと一つは「放蕩息子」のたとえ「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(15・20)もちろんこの父親は父なる神です。

これらの物語はすべてルカ福音書のものです。こうしてルカは、一方的に人間を憐れに思い、駆け寄る神の姿を描くのです。もちろん「わたしを憐れんでください」との叫びに答えるイエスも描かれていますが、一方的に憐れみをかけてくださる姿に、わたしは神のいつくしみが特に示されていると思うのです。

ところで神が一方的に憐れみをかけ、いつくしみを示されたのは二千年前だけのことでしょうか。そうではありません。詩編第136編に何度も繰り返されているように、「慈しみはとこしえに」なのです。

わたしは初金曜日の病人訪問で、神が一方的にわたしたち人間にいつくしみを示す姿を感じます。足がかなわなかったりして見舞ってもらっている人がほとんどですが、なかには御聖体が本当に命をつないでいるのかもしれないと思う方々もいます。「この人を訪ねて、わたしは命を養いたいのだ。」イエスの一方的な憐れみ、いつくしみに突き動かされて、司祭は病める羊のもとを訪ねています。神の慈しみは今も命の危機にある人を養い、神は今も司祭を通して出向いて行くのです。

わたしたちもミサの中で聖体をいただいています。聖体に養われています。そうであるなら、出会う人に、神のいつくしみを形に表しましょう。助けてくださいと言われるまでもなく手を差し伸べるイエスに、わたしたちが倣う者となれますように。ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼こちらに来てからナイターソフトの「アンジェラス」というチームに加わり、試合に出ている。レベルの高いチームもそうでないチームも混ざったリーグ戦だが、アンジェラスチームは勝ったり負けたりの普通レベルのチームだ。
▼今年のリーグが開幕してアンジェラスは3試合消化した。わたしは初戦と第3戦に参加。第2戦はコールド勝ちしたそうだが、あいにく教区司祭黙想会で不参加。参加した2戦で味わったことを分かち合いたい。
▼まず、ナイターゲームに生まれて初めて参加したということ。守備も攻撃も、ボールの距離感がいまいち分からない。特に打席。ボールが自分の打てるゾーンに来る前に思い切りスイングして、初戦の第一打席は空振り三振してしまった。
▼結局初戦は3打席回ってきて、残り2打席はボールの上をこすったボテボテのゴロ。しかし懸命に走ったおかげでセーフになり、3打数2安打の結果となった。この日は接戦だったが、あと少しのところで試合を落としてしまい、残念な結果に終わった。
▼第3戦目。この日は初回にどちらも点数が入り、乱打戦の雰囲気だったが、実際はコールドゲームで大敗してしまった。わたしは守備で外野フライを一つ取り損ね、一つ好捕した。わたしの守備は試合の大きな流れには影響なかったが、相手は強打のチームだったらしい。ランナーをためてはセンター方向にこれでもかと長打を打ち、大量失点になる。その繰り返しで5回表には10対3で、5回裏に1点取らなければコールドゲームで試合終了である。
▼5回裏、先頭バッターでわたしは打席に立つ。初球、絶好球だったのに見逃し。「しまった」と思いつつ3球目を打つ。一塁強襲。一塁手がボールをこぼしたのが見えたので懸命に走ってセーフ。次の打者のファウルフライで三塁手が触った後にボールが客席に入る。ルールはよく分からないが「テイクワンベース」と宣告され、自分は二塁に進塁。
▼次の打者が内野を越えるヒットを打った。わたしは「1点取らなければ次の回に進めない。あとの打者がわたしを返してくれるとは限らない。」そう判断して三塁で止まらずホームに突っ込んだ。三塁コーチの、今年新司祭になった人のお父さんには「ストップ!止まれ!」と言われたが無視してホームへ。
▼結局ボールはホームに戻らず、余裕でセーフ。この1点でかろうじて次の6回に進んだのだが、相手チームにさらに5点取られ、1点しか返すことができず、15対4で大敗した。

† 神に感謝 †