年間第5主日(ルカ5:1-11)

年間第5主日、水曜日からは灰の水曜日で四旬節になります。四旬節前の最後の年間主日に、「イエスがときおり見せる圧倒的なしるしに勇気づけられ、従う」こういう内容で黙想してみたいと思います。

信徒発見劇の練習が大詰めになってまいりました。これからは代わりの利かない配役の人たちは健康にも注意を払って過ごす必要があります。わたしも代わりが利かないと言えば利かない役ですが、「はい旦那様、いえ旦那様、へい旦那様」ですからその場で誰かが代わってもできるかもしれません。先日の大雪で体調を崩し、鼻水を垂らしながら聖体拝領をさせていましたが、これからは劇も黙想会もあるので、よくよく注意したいと思います。

信徒発見劇のチケットが手に入りました。会場の座席数900に対して、2月1日に行われた司祭会議では870席近い申し込みがあっていまして、わたしが申し込みを締め切った時点での申し込みのチケットは71席分でした。

ところが「申込用紙に書いてなかった人々」が現れまして、「残り30席くらいしかないから、無理だと思う」と念を押した上で恐る恐る鯛之浦教会に問い合わせたところ、新たな追加分も分けてもらえることになり、胸を撫で下ろしています。何週にもわたって呼び掛けているわけですから、今後は締め切りギリギリまで待たずに申し込んでください。

福音朗読に移りましょう。漁師を弟子にする場面が朗読されました。イエスがシモンの舟に乗り、群衆に神の言葉を語っています。そして話し終わったときに、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)と言われたわけです。

エスの言葉は、何も難しいものではありませんでした。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言っているだけですから、漁師にとって造作もないことです。しかし、シモンはイエスの言葉に素直に従うことができませんでした。自分たちの経験や知識が、「失敗するに違いない」という疑いを起こさせ、ためらってしまったのです。

エスの言葉はシモンのためらいを振り払ってしまうほど毅然としていました。シモン・ペトロはイエスに従います。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)結果はシモンの知るところではありません。イエスの言葉に従ってみることが、今は何より大切なことでした。

すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(5・6)のです。シモンの疑いを吹き飛ばす、圧倒的な結果でした。すると今度は、イエスに対する恐れを感じ始めます。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(5・8)イエスの言葉を受け取って、それをそのまま実行する。ただそれだけのことでしたが、人間はそれすらふさわしくないことを、イエスが示した圧倒的なしるしを見て理解したのです。

エスの返事はシモンの恐れをいやし、力を取り戻させる言葉でした。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(5・10)この出来事は、神の言葉を受けてそれを実行するのに、十分な資格を持った人など誰もいないことを教えているのです。

信徒発見劇の練習に加わって、一つ感じたことがあります。この劇の上演は、観る人に宣教への熱を呼び起こさせる大きなチャンスだと思いました。2月の上五島公演をご覧になれば分かることですが、信徒発見劇は圧倒的な迫力です。同じカトリックの信仰を持っていればなおさらのことですが、カトリックの信仰を持っていない人でも、主人公の杉本ユリほか大浦のプチジャン神父を訪ねていく場面は、わたしたちの心に感動を与えてくれると思います。

圧倒的な迫力と感動が伝わった時、一種の恐れすら感じるかもしれません。「わたしたちはここまで信仰のために人生を賭けることはできない。」そんな恐れすら、感じさせるかもしれません。しかしそんなわたしたちにも、イエスは同じ言葉をかけてくださると思うのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

エスの言葉を聞き、それを実行する。漁師が「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と声をかけられ、それをそのまま実行する。簡単なようですが、神の言葉をそのまま実行するのにふさわしい人は誰もいないのです。

けれども、そのわたしたちをイエスさまは圧倒的なみわざでいやし、力づけてくださいます。250年間司祭が不在だった時も、信仰を次の世代に受け継がせてくださったのは、人間がそれにふさわしかったからではなく、イエスさまがその250年の間も圧倒的なみわざでいやし、力づけてくださっていたからだと思っています。

劇の練習を通して、わたしはそのことを感じましたし、みなさんも今回の上演を観ることで、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」この言葉を感じることができると思います。

エスは今もこれからも、御自分の言葉を告げ知らせる働き手を必要としていますが、本来それにふさわしい人はいないのです。けれども、どこかで圧倒的なしるしを見せてわたしたちを呼び寄せ、協力者としてくださるのだと思います。

この世の価値観と違うイエスの福音を告げ知らせるために、神さまはときおり、圧倒的なしるしを見せてくださいます。迫害の250年間司祭が一人もいないのに信仰を誤りなく伝えさせました。わたしの司祭生活の間では病者の塗油の秘跡で余命わずかの人が健康を回復したこともありました。

これからもわたしたちは、神がときおり見せるしるしに勇気づけられて、この世にあって永遠に価値あるものを告げ知らせる弟子となっていきたいものです。

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ちょっとひとやすみ
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上五島地区で上演が予定されている信徒発見劇の出演者に選ばれ、練習に参加させてもらった。まずは、当時の浦上キリシタンが大浦のプチジャン神父に会うまでのいきさつを、よく頭に覚えこませることから始まる。
▼150年前、何が起こったのだろうか。どんな気持ちだっただろうか。思い巡らせることで「信仰の過去を知る」努力をした。役作りが始まると、配役になりきろうと考える。150年前の人物を、全身で表現して生き生きとよみがえらせたいと当然思う。
▼練習を重ねるうち、登場人物が劇を観に来てくれる信徒たちに共感できる人物となっていく。「この人たちは悩みながらも懸命に生きている自分たちと同じだ」そう思えるようになってくる。「信仰を現在化する」働きがそこにはある
▼ついに信徒発見劇を観終わった会衆が、「わたしたちが受け継いだ信仰は、次の世代に伝えなければならない。先祖が伝えてくれた信仰は、未来に遺してあげるだけの価値がある」と納得し、生活に戻っていく。自然な流れで「信仰を未来へ遺す」この気持ちが内から湧いてくる
▼練習に参加して感じたことは、「信徒発見劇は信仰の過去を振り返ることだけでなく、現在の信仰を刺激し、未来の信仰へと繋いでいく力を持っている」ということだ。その一つの形として、各地で上演した信徒発見劇を観た子供たちの中から、司祭修道者の召命が芽生えてくれればと願っている。

† 神に感謝 †