待降節第4主日(ルカ1:39-45)

待降節第4主日、ご降誕もいよいよ間近に迫りました。与えられた福音朗読はマリアがエリサベトを訪問する場面です。この中に出てくる「挨拶」について考え、ご降誕の直前の準備に充てたいと思います。

来年2月20日(土)の夜と21日(日)の昼に上演される信徒発見劇の舞台稽古がいよいよ始まりました。台本を12月初めにいただいて、「よーしセリフを覚えるぞ」と意気込んで台本を確かめました。セリフが5つ用意されていました。

「旦那様」「いえ、旦那様」「お許しください、旦那様」「はい、旦那様」「へい、旦那様」です。厳密には旦那様の後に続くセリフもあるのですが、ざっくり言えばこの5つのセリフということになります。今この5つのセリフを言う場面の、血のにじむような猛練習をしているところです。

まぁ大げさな、と思うかもしれませんが、わたしの出番はほかにないわけですから、ここにすべてをかけてやっています。テレビドラマでは一言のセリフもない通行人もいます。前方からやってくる通行人と、後方からやってくる通行人とでは、顔が見えるか見えないかで別扱いだと聞いたことがあります。そこからすれば「旦那様」と5回言うだけでもたいしたものです。小教区の皆さんが、すべての予定を横に置いて劇を観に来るだけの価値があります。たぶん。

福音朗読に戻りましょう。わたしたちは聖書を日本語で読むので、どうしても日本語で出来事を理解しようとします。けれども、聖書の出来事を日本語で理解しようとすると内容を理解し損ねることもあるのです。もちろん聖書が書かれたもともとの言語であるギリシャ語で理解できれば出来事を正確に理解することができるでしょうが、一般の日本人にはとても無理です。

そこで、今回の朗読個所に出てくる「挨拶」という言葉が、聖書のほかの個所ではどのように使われているのか、そういうことも確認しながら出来事を理解しようとするなら、日本語の聖書であっても、より実際の出来事に近づく理解にたどり着けると思います。

聖書の挨拶ですぐに思いつくのは天使がマリアに神の計画を告げる場面(ルカ1章26節から29節)です。「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」

マリアは「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(ルカ1・29)とあります。この例と、今週の朗読個所を重ね合わせると、聖書の中での「挨拶」というのは、単なる儀礼ではなく、相手に対する「祝福」が込められているようです。ですから今週の朗読個所でも、「挨拶」という言葉を「祝福」という言葉に置き換えて考えてもよいかもしれません。つまり1章39節を「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに『祝福』した。」そう読み替えてもいいかもしれません。

そうすると、マリアはエリサベトを祝福し、エリサベトはマリアを祝福し、たがいに祝福し合っている姿が浮かびます。「挨拶」と訳されてはいますが、日本の挨拶ではこのように祝福し合う様子を思い浮かべることはないのですから、聖書の世界の「挨拶」をわたしたち日本人の「挨拶」と受け取らないほうがよさそうです。

もう一つ、聖書の世界の「挨拶」に「聖霊の働き」を見ることができます。祝福は人が人を祝福するわけではなく、ある人が別の人に神の祝福を願うものです。ですから人が挨拶に祝福を込めているとき、そこには神の愛である聖霊が働いているわけです。聖霊の働きに満たされてマリアは神の計画を受け入れ、エリサベトは間近に迫っている救い主の到来をほめたたえました。

わたしはこう考えました。わたしたちが聖書の世界の「挨拶」を積極的に取り入れるなら、救い主の到来はより多くの人に知られ、より多くの人に救いをもたらすのではないでしょうか。わたしたちが人に祝福があるようにと願う挨拶を交わすなら、挨拶を送る相手も聖霊の働きに触れて、御子イエスを送ってくださった神に心を開くようになるのではないでしょうか。

それぞれ、何ができるかを考えてみましょう。子供たちの世代に、教会から遠くなってしまった人々が身近にいるかもしれません。その人たちのために、わたしたちは祝福を願う挨拶ができるのではないでしょうか。結婚をしてはみたが、結婚相手を教会に近づけるどころか、カトリック信者のほうが教会から疎遠になっているかもしれません。そのような子供たちに、祝福を願う挨拶ができるのではないでしょうか。

聖書の世界の「挨拶」を交わす人々の上に聖霊は必ず働き、神の意志を分からせてくださいます。わたしたちが人を立ち返らせることは難しいかもしれませんが、祝福を願う挨拶を交わすことは必ずできるはずです。わたしたちもエリサベトに倣い、声高らかに言いましょう。人間を救う神の御計画は、すぐそこまで来ているのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼カレンダーが必要な時期になってきた。カレンダーと言えば、亡くなったあるシスターがよくカレンダーを分けてくれていた。わたしは第一子長男なので、姉がいない。姉がいる人を見ると羨ましいと思う。自分にとっては姉のようによく面倒を見てくれたシスターだった。
▼前回のメルマガで通算800号。368号でCD3枚に収めて用意したようだ。おおよそそれ以降の分をCDに焼いて提供するなら、1000円で提供できそうである。もし説教の録音CDに興味があれば、郵便番号、住所、氏名を書いたメモと、82円切手12枚(984円)を同封して中田神父のところまで連絡(メール)を。中田神父の住所は「〒853-3102 長崎県南松浦郡新上五島町岩瀬浦郷724番地 カトリック浜串教会」。
▼メルマガ800号記念に当たる、先週の説教案は「いつくしみの特別聖年」に合わせて考えた説教だった。実は、午後1時からの上五島地区の特別聖年開年ミサの説教も頼まれていた。普通に考えれば、1日に2度目的の違う違うミサで説教するのだから2通り用意しなければならないわけだ。
▼とは言えわたしも超人ではない。だから同じ説教が使えるようにと、地区行事の開年ミサ用説教を、小教区の信徒にも聞かせた。どちらにも使えるように用意したのではなく、明らかに地区行事を意識して用意した説教案を、小教区の信徒にも聞いてもらったということである。
▼小教区の信徒は別段違和感もなかったかもしれない。しかしわたしには、よそ行きの説教のようでかなり違和感を感じながら小教区では説教していた。だがおかげで、上五島地区の特別聖年開年ミサの時点では同じ話をするのが4回目になっていたので、難しさを一切感じることなく説教を務めることができた。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===