王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)

王であるキリスト、年間最後の主日を迎えました。キリストはどのようにわたしたちを導くのか、わたしたちはどのように王の国民であることを証しすればよいのか、考えることにしましょう。

来週日曜日、故郷の鯛ノ浦教会で意義深いお祝いが予定されています。わたしの2年先輩の葛嶋神父さまの叙階25周年「銀祝」を記念するミサと祝賀会です。わたしも出席することにしています。

出席する第一の理由はもちろん先輩神父さまのお祝いのためですが、もう一つの理由は、自分自身2年後に銀祝を迎えることになるので、いろんなことを見て、持ち帰って来ようと思うからです。

銀祝の記念ミサの様子はもちろん、祝賀会でのプログラムも参考になると思っています。銀祝を迎えた葛嶋神父さまがどんなお話しをするのか、集まっている信徒の皆さんの熱意はどのようなものか、2年後にはどのように変化していると考えられるか、雰囲気を感じ取ってきたいと思います。

葛嶋神父さまは高校1年の時から小神学校に入学してきた編入組です。わたしは中学1年からの入学だったので、中2になった時に急に先輩が飛び越えてきた感じで戸惑いつつ小神学生時代を過ごしました。

郷里の鯛ノ浦教会で、わたしと葛嶋先輩は比較されていたと思います。わたしはどこから見ても続かないだろうと思われていましたし、先輩はどこから見ても神父さまになるだろうと思われていました。

でも先輩のよい模範があったから、わたしはこの道を進むことができましたし、折に触れて「こうじ」と下の名前で声をかけてくれ、いつも気にかけてくれた先輩でした。先輩が留学中にときどきFAXで近況報告などをしていましたが、やはり恩を感じていたのだと思います。

その先輩が25年を迎えて、喜ばしいなという思い以上に、感謝したい気持ちでいっぱいです。お互い大人ですから、何があっても受け入れることはできますが、先輩は最初から最後まで模範でいてくれました。人間ですから何かしらの噂が聞こえてきても不思議ではありません。ところが先輩の悪い噂は、わたしには何一つ聞こえてきませんでした。それはわたしにとって、曲がりなりにもここまで続けてくることができた大きな支えだったと思っています。

福音朗読に移りましょう。ピラトは裁判の席でイエスと正面から向き合います。ピラトは権力者ですから、権力を脅かす人や、権力を争う可能性のある人には神経をとがらせていたでしょうが、イエスは権力者が気にも留めない生き方の人でした。ピラトとしては、イエスに全く興味がなかったと思います。

しかしイエスが「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(18・36)と話し出したときには無視できなくなったと思います。国を支配しているのであればそれは権力者のはずです。ピラトのほかに権力者がいるとなれば、処刑しなければと思ったわけです。ところがイエスは権力者ではありませんでした。権力で支配する王ではなかったのです。イエスは、真理に基づいて導く王でした。

エスが民を導くために持っていた真理とは何でしょうか。それは一般的な真理ではなく、イエス・キリストが語られた言葉を意味しています。イエス・キリストは御父から聞いた言葉を持っていました。御父の言葉は真理であり、わたしたちは真理であるイエス・キリストの言葉をよく聞き、真理を受け入れるために心を開き、悔い改める必要があります。

真理は人を強要したりしませんが、喜んで従う心を育てます。わたしも、良い先輩を与えられたので真理の素晴らしさが分かりました。真理を知ったなら、真理そのものであるイエス・キリストに従うようになります。先輩に無理やり従うよう強要されたのではなく、真理を知って歩く姿をわたしも見たので、どのように歩けばよいかが分かり、自然と本来歩くべき道に従っていくことができたのです。

ピラトは裁判に立つイエスを見て、イエスが無実であることを理解します。しかもイエスが真理を持っていて、ピラトに態度を決めるように迫っていることも感じ取っていました。正しい道を選ぶことができる真の勇者であるなら、イエスに導かれ、イエスに聞き従うべきでした。しかしピラトは地上の権力者であり、手にしている権力がピラトの心を曇らせ、イエスの声に耳を傾けることができなかったのです。

わたしたちもイエスの声に耳を傾ける必要があります。わたしたちは今日イエスによって真理の言葉を耳にしています。イエスが語る言葉、イエスの声がわたしたちを本当の幸せに導く真理です。キリストの言葉の中に留まる者だけが真理を知り、この真理によって罪から解放されます。

エスの中に真理があると知った人が、イエスの導きに心を開いて日々を送るなら、そのような人々がそこここに見られるようになるなら、イエスの国、この世に属していない国が実現し、広がっていくのです。

王であるキリストの祝日、真理であるイエスの言葉にわたしたちは耳を傾け、態度でこの祝日を祝いましょう。わたしたちは真理によって導いてくださる王をいただく民であると、生活で証ししましょう。

権力にひれ伏して生きる民ではなく、多数決で疑問に思いながらも流されていく民でもない、イエスのみ言葉に耳を傾けて生きる国民であると、チャンスがあれば声をあげましょう。真理に属する人が一人でも多く王であるキリストのもとに集まりますように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼魚釣りは「魚の引きが楽しい」のは言うまでもないが、わたしの釣りの場合「何が釣れるか分からない」というのも楽しみの一つである。最近はずっとボートでの釣りなので、「この魚種を」と決めて出掛けるわけではない。
▼「このあたりで釣っていれば、何かしら食ってくる」そんな当たりをつけて釣りをしているから拍子抜けするような魚が喰って来たり思わぬ大物が掛かったりする。大きな魚で拍子抜けするのは学名「イラ」という魚だ。長崎(五島)では「ナベタ」と呼ぶ。
▼このナベタは引きは強いので「鯛か?」と期待させるが、途中で「いや、違うな」と分かる。頭が極端に大きいので見た目はグロテスクだ。身が柔らかくウロコを取るのが面倒だが、から揚げにするととてもおいしい。もともとはベラ科の仲間で、他にもコブダイなどが仲間。
▼最近釣っていてワクワクするのは根魚(ねざかな)のオオモンハタ。強烈な引きが魅力で、いきなりひったくっていく。本当はキジハタを釣りたいのだが、キジハタは浜串周辺に限らず個体数が少なく、めったにお目にかかれない。釣れているのはほとんどオオモンハタである。
▼キジハタもオオモンハタもスズキ目ハタ科の魚。見分けは付くが、キジハタは赤に近い褐色で全身に斑点があり、背びれの付け根中央部に大きな黒色斑がある。オオモンハタも全身に斑点があるが、見た目はこちらのほうが「キジ」に似ている。ハタ科の魚は種類が多く、ホウセキハタ、オオモンハタ、キジハタ、アオハタ、ノミノクチ、ほかにも数え切れないくらいだ。
▼こう言うと相当詳しいのかと思われるかもしれない。実は魚類図鑑を購入してその受け売りに過ぎない。今回購入した図鑑は発行年が古いが、当時の定価で25750円だったのをアマゾンと提携している古書店から9000円くらいで入手した。ときおり名前のわからない魚を釣ることがあるので、これからは持ち帰ってから調べる楽しみができた。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===