年間第30主日(マルコ10:46-52)

「そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10・52)道端にいたバルティマイに、イエスは目が見えるようになる奇跡と、歩むべき道を示してくださいました。今週の物語に学び、わたしたちの取るべき態度を見いだすことにしましょう。

物語に登場するバルティマイは道端に座り、人々の憐れみにすがって生きるしかない人物でした。目が見えないという不自由だけでなく、自分で人生を切り開く方法も与えられずに生きていたのです。けれども「ナザレのイエス」だと聞くと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10・47)と叫びました。

バルティマイは、チャンスに恵まれなかったけれども、彼自身は活力に満ち、行動的な人物だったのかもしれません。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」(10・48)となっています。

さらにバルティマイは、ナザレのイエスがそばを通りかかった時、すでに自分が歩くべき道に気付き始めていたかもしれません。それはイエスによって完全に開かれる道、イエスを信じ、イエスに従って生きるという道でした。

それまでは、Aという人が憐れみをかけてくれればその人にすがり、Bという人が憐れんでくださればその人にすがる、そうした不安な日々を過ごしていました。どのようにしてナザレのイエスを知ったかは書かれていませんが、バルティマイの中でついに、信頼して一生涯ついていける人、運命を委ねることのできる人に出会ったのです。

バルティマイはイエスに呼ばれ、上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来ました。ここで「上着を脱ぎ捨てた」とありますが、この上着はただ単に着ていたものを脱ぎ捨てたという意味ではなさそうです。バルティマイにとって「上着」とは、彼の身につけるものすべて、もしかしたら家財道具すべてだったかもしれません。

彼はイエスに呼ばれたことの喜びで、身につける唯一のもの、自分のたった一つの財産を捨てて、イエスに従ったのです。これからはイエスが自分の生きるすべてであり、イエスの示す道が歩き続ける唯一の道になったのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちはある時点でイエスに呼ばれ、イエスに示された道を選ぶかどうかを尋ねられています。たとえば結婚を機に洗礼を受けた人は、イエス・キリストを信じて道を歩くという決心を自分で立てている人です。これからの人生、喜びも悲しみも、イエス・キリストに信頼して生きていくと、信仰を表明して今に至っているはずです。

今、洗礼を受けてからの歩みを振り返って、これまでよりどころにしてきたものを脱ぎ捨ててでも、イエスに信頼を寄せて生きてきたという実感があるでしょうか。イエスがわたしを呼ばれたのに、わたしが最後に信頼するものは、何か別のこの世のものでしょうか。

またここにいる多くの人が、堅信の秘跡を受けてイエスに呼ばれた人々のはずです。洗礼の時に受けた恵みを、人々の前で強くあらわしなさいと、イエスになり代わって堅信を授けてくださった大司教さまに促され、これからは大人の信者として歩みますと決意表明したはずです。

その歩みは、今も変わらず保っているでしょうか。あるいは堅信の恵みに強められたのに、イエスに従って歩むと表明した時の熱意は冷めて、消えていくはかないものを追いかけて生きているのでしょうか。

エスは今も、バルティマイの前にいて、道を進まれるお方です。バルティマイが歩まなければならない道、困難ではあってもイエスを信じて生きるという道を見失わないように、先を進んでおられるのです。それはわたしたちにとっても同じで、イエスに従いますと表明した人々が道を逸れないように、今も先を歩いて案内してくださいます。

エスの向かう先には、十字架があり、イエスはそこで命をささげることを知りながら歩いていますが、それはわたしたちがイエスを信じて生きることで生じる困難に恐れて逃げ出さないためなのです。

バルティマイは、なお道を進まれるイエスに従いました。自分が、信頼して一生涯ついていける人、運命を委ねることのできる人に出会ったことを証明し続けるためにイエスに従っていきました。

わたしたちも、なぜあなたはこの道を歩くのですかと問われたら、「この道の先におられる方は、わたしが一生をかけてついて行く価値のある方だからです」といつでも証明できるように心の準備をしておきましょう。

どこに置かれていても、どんな状態にあっても、「わたしは今、生涯をかけて信じ続ける人をわたしの生活で証ししているのです」と言える勇気を持ちましょう。証をするチャンスがない人も、わたしにもチャンスを与えてくださいと、このミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼出張が入り、日曜午後から留守となる。遠方に出張だが、ただでは出張しない。この時期日本シリーズなのだから、どうにかして雰囲気でも味わいたい。そこで月曜日9時から2日間あるまじめな会議に遅刻することを重々承知で、日曜日夜は福岡に1泊することにした。
▼日曜日に出張先に行けば、月曜日朝9時からの会議には十分間に合う。しかし日曜日に出張先に行くためには、かなりの無理を強いられる。先ず五島列島を脱出することから始まるから、出張先に到着するのはおそらく夜10時だろう。
▼そこまでして、2日間あるまじめな会議だけ参加して帰って来るのは、高い交通費に対して非効率ではないか。会議のメンバーには小一時間迷惑をかけるが、前日は福岡でソフトバンク対ヤクルトの日本シリーズ第2戦を観戦することにした。翌朝早くに移動を開始し、会議には1時間遅れの午前10時に到着予定である。
▼非難を浴びるかもしれない。会議に遅れてまで日本シリーズを観る必要があるのか。だがわたしが今後日本シリーズを観戦できるか考えると、今年を外したらもう二度とチャンスは巡って来ないかもしれない。そういうまたとない「ついで」のチャンス。少々非難を浴びようが、観戦を決行することにしている。
▼話変わるが、長崎の教会群が世界遺産にいよいよ登録か?となって、五島列島への巡礼客はウナギ登りである。先日大阪の大司教さまご一行が五島列島の教会巡礼にやって来ていた。もともと上五島出身の大司教さまでもあり、どの教会に行っても歓迎を受け、またご自身もそれぞれの教会への思いを分かち合ったりして精力的に巡礼をこなしたようだ。
▼わが浜串小教区にも大司教さまご一行がおいでくださった。福見教会を訪問後に浜串教会を訪問してくださったのだが、大司教さまは愛用の帽子を忘れていったようで、主任司祭のところに届いていた。わたしがこの帽子をお借りしてかぶれば、「司教帽をかぶった」ことになるのだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===