年間第29主日(マルコ10:35-45)

「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10・43-44)イエスは弟子たちに彼らの歩くべき道を示されました。支配者や偉い人たちが目指すこの世の道ではなく、神の前に偉くなるための「別の道」を弟子たちに示します。イエスが示された「別の道」はわたしたちにも関わりがあります。考えてみましょう。

先週金曜日、いつもの通りの準備でボート釣りに出て12キロの青物を釣り上げてしまいました。ブリだろうと思いますが、ヒラスかもしれません。日曜日のソフトボール大会の打ち上げに使う予定で、浜串漁協の冷蔵庫に預かってもらっています。特大ホームランを打った気分なので、ソフトボール大会でのホームランはもうどうでもよくなりました。

今回は運が良かったと思っています。たまたま、買って来たばかりの糸を買ったばかりの3000番のシマノリールに巻いて出かけていました。0.8号のPE300メートルに3号のリーダーを5メートルです。竿は、いつもと違う柔らかめの、よくしなる竿を持って行きました。

朝8時、ふだん釣りをしているマリアさまと見附島(みつけじま)を直線で結んだ真ん中あたりでイトヨリを釣ろうかなくらいの感覚で開始しました。何回かバラシが続いたので今日はボウズかもと諦めていたら満潮の午前10時、今まで体験したことない重さが竿に伝わりました。内心「うわっ、サメがかかったか」と悪い方に考えてしまいました。

まあいずれにしても、掛かってしまったのだから、引きちぎられるかハリから外れるかするまではやり取りしなければなりません。ボートの周りをゆっくり回る相手とかなりの時間格闘した結果、ようやく姿が見えまして、青物だと分かった時は緊張しました。最後の最後逃げられでもしたら、サメは諦めがついても、青物は諦めきれないからです。

片手に竿、片手に網を持って最後の取り込みをしようとしましたが頭は入っても尻尾が入りません。竿は投げ捨て、尻尾を掴んで何とか引き上げたのが掲示板に貼ってある魚です。もう、釣りに関しては何も思い残すことはありません。あとは釣った魚を皆さんにお配りして、仕えられるためではなく仕えるために、この趣味を活かしたいと思います。

福音に戻りましょう。イエスが弟子たちに示された道は、偉くなるために支配者が目指す道のりと比べると遠回りのように見えます。実際はどうでしょうか。わたしは、イエスが示された道こそ、神の前に偉くなる近道であり、王道であると思います。なぜなら、神の子みずからがこの「皆に仕える者」「すべての人の僕」になられたからです。神の子が選ばれた道は、きっと近道であり王道であるに違いありません。

では弟子たちは、イエスが示された道を躊躇なく選ぶことができたのでしょうか。ヤコブヨハネの願いが、弟子たちの中に潜む名誉心や出世欲を抑えきれないでいたことが伺えます。イエスが直接選ばれた12人の弟子たちでさえも、イエスに示された道をまっすぐに歩むことは難しかったのです。

しかしまったくついて行けなかったわけではありません。よろめきながらも、ためらいながらも、弟子たちはイエスがたどった道をついて行きました。すなわち、すべての人に仕える道、イエスを憎み、命を奪おうとする悪人にも仕えて命をささげようとする道です。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」(10・39)ここで言う「洗礼」は殉教を指しています。弟子たちも、キリストを信じる者の集まりである教会を迫害する人たちに深い愛を示し、自分たちの命をささげて仕えたのでした。

わたしたちも、イエスの示された道を歩むべきです。すべての人に仕える道は、イエスに倣う道ですから神の前に偉くなる近道であり王道です。しかし生身の人間です。どこでイエスに倣う道を歩む決心を固めることができるでしょうか。

わたしたちがイエスの示された道を自分の歩むべき道にするためには、これまでの信仰の先輩を参考にすることが助けになります。迫害する人にも仕えるというこの険しい道を歩んだ先輩たちは、ある人は殉教者として、ある人は証聖者として神の前に名を残しました。

また名前は残さなくとも、神の国にその名を刻むことができました。わたしたちの信仰の先輩たちは、「皆に仕える者」「すべての人の僕」になる道が、神の前に偉くなる道であることを雄弁に語っています。

もう一つわたしは、次のように考えることでイエスが示された道を自分の道とする決心が固まるかもしれないと思っています。それは、「仕える」という道は、多くの場合だれかの役に立つ道でもあるということです。

わたしたちは人の役に立つことを大いに喜びます。人の役に立つ人物のことを「あの人は使える人だ」とも言います。わざわざ名誉心や出世欲を満足させる必要はありませんが、自分が人の役に立っている、そこそこ使える人間であるという思いは、喜んで人に奉仕する、お仕えするきっかけになるのではないでしょうか。

時には、仕えることの難しい相手もいるかもしれません。同級生でありながら、自分は平社員で相手は局長であるとか、同級生でありながら自分は一介の主任司祭、相手は大司教であるということも考えられます。それでも、仕える者になることで、イエス・キリストのお役に立てるとすれば、これ以上望むことはないはずです。

エスはわたしたちに、「皆に仕える」という神の前に偉くなる道を示してくださいました。それは同時に、人の役に立つ道、使い物になる道でもあります。キリストを信じない者からはどう言われようとも、神の前に偉くなる近道、王道を胸を張って生きていきましょう。そのための恵みを、今日のミサで願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼木曜日、巡回教会での子どもミサのときだった。10月に「幼きイエス聖テレジアおとめ教会博士」(1日)と「イエス聖テレジアおとめ教会博士」(15日)が祝われるが、この両聖人に触れながらその日のミサの話を子どもたちに聞かせた。
▼「今月、2人の女性を『おとめ教会博士』として祝っています。たまたま2人共に『テレジア』という名前でした。『教会博士』という呼び名は、イエスさまのことをとても深く学んだ人で、わたしたちにイエスさまのことを詳しく説明してくださった方々のことです(わたしの説明は厳密には不十分だと思う)。
▼「ところで今日は『おとめ』という呼び名について考えたいです。『幼きイエス聖テレジア』は24歳くらいで亡くなりました。『イエス聖テレジア』は67歳で亡くなりました。ところで、『おとめ』ってどんな人のことを言うのでしょうか。」この質問をしながら、自分が少し意地悪な話をしようとしているという罪悪感があったが、もはや引き返せない状況にいた。
▼「○○君、どう思う?」小学5年生の男の子がすぐに「20歳から30歳くらいの女の人だと思います」と答えた。「○○君はそう思ったんだね。教会が考えている『おとめ』は、イエスさまのために結婚せずに一生涯をささげた人のことを言うんだよ。」
▼「後ろを見てごらん。シスターが3人いるでしょう。このシスターたちはイエスさまのために結婚せずに一生涯をささげているから『おとめ』なんだよ。おばあさんでも、おとめなの。」わたしは笑わないようにとがまんするのに必死だったが、わたしから指摘された2人のシスターは、おかしくて大笑いしていた。
▼教会は「おとめ」という称号を大変重んじている。「おとめマリア」がその最たるものだ。神にすべてをささげて生きた「おとめ」は、それだけで聖人としての称号に値する。自分のためだけに生きた人を「おとめ」と呼んでいるわけではない。教会が考える「おとめ」はイエスのためにまっすぐに生きた女性だ。「おとめ」の生き方をあらためて評価すべきではないだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===