年間第25主日(マルコ9:30-37)

年間第25主日B年、イエスは弟子たちに問いかけます。「途中で何を議論していたのか」(9・33)この言葉を手掛かりに今週の糧を得たいと思います。またこのミサは敬老者のためのミサです。わたしたちの先輩にミサを通して感謝を表しましょう。

16日(水)にお招きいただいた福見の園敬老会で、思いがけない人が舞台で歌を歌っていました。わたしの洗礼の抱き親である鯛ノ浦のおじさんです。もうおじいさんですが、わたしが学生のころから鯛ノ浦教会信徒会長としてずっと教会を支えているのを見て来ました。

当時喜蔵おじさんは営林署に勤めていましたが、わたしが司祭に叙階された直後、木の切り出し作業中事故に遭い、後遺症を負ってしまいました。つい最近福見の園でデイサービスを利用していることを知りました。病人に聖体を授けるチャペルで喜蔵おじさんを見たとき、びっくりしたと同時にもうこんなお年寄りになったのかと思ったものです。

身体の不自由にもめげず、懸命に生きている姿に心打たれました。そのおじさんが、聖体を授けて福見のチャペルから帰る間際、「中田神父さま、もう銀祝ですか?」とわたしに声をかけてくれたのです。自分の身の上話ではなく、わたしへの気遣いをしてくれたのです。

「今23年目だからなぁ。喜蔵おじさんもう少し元気でいてね。」あとになって「少し配慮が足りなかったなぁ」と思いました。どれだけお世話になったか分からない恩人なのに、感謝の言葉一つすら言えなかった。「あと2年たっしゃで暮らせよ。」まるで社交辞令のような言葉。相手に対して失礼ではなかったか。そう思ったのです。

わたしが司祭になるまで、おじさんは自分の両親と変わらないくらい面倒を見てくれました。いよいよ司祭になるときも、だれよりもお祝いを包んでくれました。そして待ちに待った司祭の姿をその目で確かめたと思ったら、その後は身体不自由という十字架です。
ふつうでしたら、どれだけ神さまを恨むことでしょう。わたしが司祭になるときまで、洗礼の抱き親としてずっと目をかけてくれたように、その後の23年間も、何かと世話を焼いてあげたかったはずです。思うことを一つも果たせないまま、今日まで生きて、久しぶりに再会した。何かほかに言いたいことがあっても不思議ではありません。

ところが、おじさんは誰にも、もちろん神様にも文句ひとつ言うことなく、わたしの銀祝を楽しみにしてくれたのです。かつて洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちが「ラビ、(中略)あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」(ヨハネ3・26)と訴えてきたときに「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(同3・29)と答えたことがありました。久しぶりに再会し、身の上を訴えるのではなくわたしのことを心から喜んでくれるおじさんに、洗礼者ヨハネと同じような懐の広さを感じたのです。

人の言葉は思いを表すものです。予想もしなかった十字架を背負った23年の間にわたしのおじさんが何を考えていたか、少し想像できました。おじさんはどのような境遇に置かれたとしても、イエスに従うことを優先して生きてきたのだと思います。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9・35)自分に背負いきれないような十字架を背負わせたイエスに、本当なら文句の一つでも言いたかったはずですが、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる道を受け入れたのです。

自由に動かない手足、思い通りに語ることのできない舌。鯛ノ浦でその名を知らない人がいないほど知られている人でした。そういう人にとっては受け入れ難い選択肢です。けれどもおじさんは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(9・37)このイエスの言葉をそのまま、文字通りに今日まで生きてくださったのだと思います。

エスは弟子たちにお尋ねになりました。「途中で何を議論していたのか」(9・33)。予想もしなかった晩年を過ごしながら、おじさんは何を考えて過ごしてきたでしょうか。それに比べて、わたしは司祭として何を考えてここまできたでしょうか。きっとわたしは責任を問われると思います。弟子たちがイエスの問いに黙ってしまい、答えられなかったように、わたしもイエスが考えていたものとは似ても似つかぬものを途中で考え、議論していたのだと思うと、返す言葉もないくらいです。

エスは、弟子たちが途中で何を議論していたのかすべてお見通しだったことでしょう。そのことには一切触れようとしませんでした。弟子たちが考えを改めてくれることを信じて、過去を問うのではなく、未来に目を向けさせたのです。

これからもっと自分に従うことが難しくなる。だから、今のうちにわたしの言うことに耳を傾けなさいと弟子たちに促します。わたしたちもまた、この先今よりもずっとイエスに従うことが難しくなる。それが見通せるのに、なぜわたしたちは耳を貸そうとしないのでしょうか。

「途中で何を議論していたのか。」わたしはしばしば、途中なんてどうでもいいのだ、結果さえついて来れば構わないのだと思って生きてきました。福見の園の敬老会で見た喜蔵おじさんの姿は、わたしに途中で何を考えるべきかを教えてくれたのだと思います。

敬老のお祝いを迎えた方々を前にして、もう一度戒めの言葉をいただいている、そんな気がします。わたしたちに途中で何を考えるべきかを教えてくださる先輩方に、神様がこれからも祝福された日々を与えてくださるように、ミサの中で祈りたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週の「休館日」は「休刊日」となっていたらしい。申し訳ない。9月第2週にいただいた夏休みの後半は、九州視覚障害者情報提供施設協議会(九視情協)沖縄大会への参加のために沖縄に出掛けていた。
▼沖縄は9月2週目でも夏。日差し、温度、湿度、どれも夏を感じる体感だった。そんな中で研修を受けてお疲れの人々もいたかもしれない。それでもわたしたちを出迎えてくれた主管施設の入念な準備と歓迎の気持ちが十分伝わって、実りある研修会となった。
▼沖縄には福岡空港から午前中の便で向かった。実は福岡空港に向かう時、都市高速道路に入った途端バスが動かなくなり、運転手に「都市高速はトラック横転事故で渋滞していますよー」と無線が入ったりして、「大丈夫かなぁ」とすぐ感じた。
▼運転手はすぐに先回りして「都市高速を降りて一般道を使います。到着予定時刻が遅れてしまうことをご理解ください」と案内をした。本来の到着予定時刻が飛行機の離陸1時間前だから、30分遅れても間に合うだろうという安易な考えを持っていた。
▼ところがバスの到着は50分近く遅れてしまい、慌てて搭乗窓口に飛び込んで事情を説明した時には5分前。「すでに機体のドアも閉められているので搭乗できません」と取り付く島もない。泣きそうな顔でいたら、次の便に空きがあり、振り替えてくれることになった。出発からハプニングに巻き込まれた。
▼沖縄での大会は二日目の正午で終わり、帰りの飛行機は18時。それまで時間があるのでツアーバスに乗って史跡めぐりを計画した。首里城ほか、いくつかの世界遺産が見学できた。ツアーバスの会社には前もって伝えていたが、18時の飛行機に間に合うようにツアーを外れ、モノレールで空港入り。今度は十分に余裕があった。
▼「沖縄に行ったら沖縄そば。」違う考えの人もいるだろうが、わたしはそう思っていたので、昼も飛行機搭乗前にも、ソーキそばを注文して食べ比べ。結論として、わたしにはどちらの店がおいしいかの差は分からなかった。どこも大差ないのかなと思った。
▼十分余裕を持って搭乗手続きをして、シークヮーサー味のジュースを飲みながら搭乗案内を待っていたが、「機体の整備のため、少々お時間をいただいています。機内へのご案内が遅れますこと、まことに申し訳ございません」と何度も時間を延期され、18時5分の便が18時40分まで待たされた。
▼福岡に移動したら23時45分発のフェリー太古で上五島に帰る。「時間があれば博多港すぐ近くの温泉施設で汗を流して」と思っていたのに時間がなくなってしまった。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===