年間第24主日(マルコ8:27-35)

年間第24主日B年、「ペトロの信仰告白」が福音朗読に選ばれました。ペトロの言葉はまだ炉から取り出された鉄のようなもので、イエスによってこれから信仰告白が試され、強められていく様子が描かれています。わたしたちの信仰も試され、強められる必要があるので、じっくり朗読をたどってみましょう。

夏休みをいただいてきました。広島マツダスタジアムの野球観戦と視覚障害者情報提供施設の九州各地区からの研修会で沖縄に行ってきました。広島ではエース前田の力投、助っ人外国人エルドレッドの初回いきなりのツーランホームランなどもあってファンには最高の野球観戦でした。沖縄での研修会では視覚障害者への情報提供の総合的な技術向上に役立つ研修を受けることができました。ついでに、首里城などの史跡めぐりもしてきました。

ところで、先週夏休みを取るにあたって、わたしは間違いのないように念を押して出掛けて行ったつもりでした。けれども月曜日になって、わたしがたくさんの荷物を抱えて車に乗りもうとしているところに「どちらに行かれるのですか〜」と声をかけてくる人がいました。

わたしは急いでいたこともあるし、昨日お知らせしても次の日にはどこに行くのかと尋ねるかぁと短気を起こしていたこともあって、喉元まで「知らん」と言いかけました。実際には「ここで短気を起しちゃいかん」と自分に言い聞かせて「今週から夏休みなんだよ」と何とか答えてその場を離れたのでした。

いろんなことを思いました。「どうすれば、間違いのないように伝えられるのだろうか。そもそも何をどうお知らせしても漏れなく知らせるのは無理なのだろうか。」そうなるとお知らせする必要があるのかということにもなりますが、やはりお知らせしなければもっと伝わらない。悩ましいなぁと思いました。

実は今週の朗読個所も、イエスが悩ましい思いをする場面があるのです。イエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(8・29)と投げかけると、ペトロが答えます。「あなたは、メシアです。」(同)この答えを聞くことのできたイエスは、ひとまずご自分のこれまでの働きが理解されていることに満足したでしょう。

そこでイエスは、ご自分がたどる道を、「誤解のしようがないくらいに、意味を取り違えることがないほどに」はっきりと話して聞かせたのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」(8・31-32)

それなのにペトロはイエスの言葉をさえぎりました。自分が信仰を言い表した方が、そんなみじめな道をたどるはずがない。あるいは、そんな道をわたしたちがたどらせませんとでも言いたかったのでしょうか。

「そんな道をたどるはずがない」はまだしも、「そんな道をたどらせません」はもう上から目線です。イエスの声に聞き従う心構えを見失っています。心構えを見失い、上から目線になってしまったペトロに目を覚まさせるために、イエスは彼を叱ったのでした。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8・33)

ペトロへの叱責も手厳しいですが、群衆と弟子たちを呼び寄せて言われた心構えもひるみそうになるほど厳しい招きです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8・34-35)

どうしてこんな厳しい招きをされたのでしょうか。イエスに従うということは、人間の力だけでは果たせないことだからです。人間的にはみじめな思いをしたその先に栄光が与えられる。そのような道は人間の理解の及ばない道です。この道を歩むイエスの後に従うためには、神が用意したそれぞれの十字架を背負って歩く必要があるのです。

十字架は漬物の重石のようなものかもしれません。漬物にとっては迷惑なもののように感じるかもしれませんが、漬物が立派な漬物となるために、どうしても必要なものなのです。わたしたちキリスト者が、イエス・キリストの後に従って、本物のキリスト者になるために、自分の十字架という重石がどうしても必要なのです。

お休みをいただいている期間、まず緊急の電話はかかって来ないだろうと思ってはいましたが、それでももしも電話がかかってきたら、すぐさま引き返すつもりでいました。それは、わたしに与えられた自分の十字架だと思っています。やはりわたしの気持としては、どこに行っても、どこにいても、浜串小教区の主任司祭という自分の十字架を背負っていると感じます。

「こんな理解に苦しむ道はまっぴらごめんだ。」そう感じる場面もときにあるかもしれません。イエスはわたしたち一人一人に違った十字架を用意しておられるのだと思います。自分の十字架を背負ってみても、これは自分の十字架ではないと言い張るかもしれません。

そんなときでも、イエスがみじめな最期を遂げて復活の栄光を手に入れたことは忘れてはいけないと思います。わたしの命を救うのはイエス・キリストです。みじめな思いを背負うことも含めて、イエスの後に従う勇気を、ミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼夏休みの思い出を2回に分けて。先週夏休みをいただいたが、前半は広島のマツダスタジアムと呉の大和ミュージアムを訪ねた。マツダスタジアムは野球観戦。なぜか自分が観戦に行くと、勝ち試合に当たる。昨年は野村先発で大勝した。今年はマエケン先発で5対0の勝利。しかも助っ人外国人のライナーでのホームランを見た。これは刺激になった。
▼お忍びで出かけたこともあって、「わたしはここに座って応援していますよ〜」と言えなかったのだが、十分試合は満喫した。ヒット以外のものも絡めて得点にしてしまう。これは9月最後の火曜日に予定されている「司祭団ソフトボール」に大いに参考になった。
▼呉の大和ミュージアムも勉強になった。交戦したアメリカが終戦後も日本に敬意を表しながら復興を見ていたことなどは、戦争をただの戦争に終わらせない長い目が必要なことを教えてくれた。戦艦大和の模型や、ゼロ戦の展示、「男たちのYAMATO」という映画を思い出しながらしみじみと見た。
▼実は大和ミュージアムは今回2日にまたがって訪ねる羽目になった。最初に行ってみると休館日と立札が掲げてある。がっかりしたが、港に沿って歩いて行くと、呉の町並みが眺められる公園にたどり着き、そこでは気さくにガイドしてくれる住民にも会った。思いがけない収穫となった。
▼「海軍のカレー」と銘打ったカレーを食べたが、正直これは名前負けかなと思った。五島で司祭館の奉仕をしているあちこちのシスターたちのカレーのおいしさを知っているので、海軍カレーに特に感銘を受けることはなかった。それはそれでぜいたくな話かも。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-====