年間第23主日(マルコ7:31-37)

年間第23主日B年、耳が聞こえず舌の回らない人のいやしが福音朗読に選ばれました。この奇跡は本人だけでなく、周囲の人々にも変化をもたらします。周囲も含めた変化に注目し、今週学びを得ましょう。

今年は今週、9月第2週に夏休みをいただくことにしました。週の後半に沖縄に出張する必要があったので、ここで一息入れることにしました。ついでに広島のマツダスタジアムにも行ってこようと思っています。わたしのカープを思う気持ちは熱狂的と言われても仕方がないです。ただわたしは自分が狂っているとは思いません。人間にはオレンジ色の血が流れているのではなく、赤い血が流れているからです。

何カ月か前に、若いカップルが司祭館を訪ねてきました。わたしたち結婚しますという報告と、当日の結婚式ミサに参列してほしいという依頼でした。わたしは「喜んで参列するよ」と二つ返事でした。

ところで、報告に来たカップルを見て、わたしが心の中で抱いた感情に自分でショックを覚えました。それは、とっくに二十歳を過ぎた青年が結婚の報告に来たというのに、わたしの目にはまだ子どもに過ぎない二人が立っているように見えたからです。

皆さんは親子の間でこんな会話を耳にしたことがないでしょうか。「自分はもう大人だ。子ども扱いしないでほしい。」たとえばそれは、自分の子が親に意見を述べている場面です。親が心の中で「子どものくせに何を言っている」と思っているところに、子どもからはっきりと釘を刺されるというようなケースです。

まだまだ子どもだと思っていた。けれどももはや子どもではなく、一人前になっているわけです。わたしには子どもはいませんが、目の前のカップルが子どものように見えた体験をあとで思い返して、自分は人としても司祭としても、人を子ども扱いしたりはしないと思っていたのに、こうも変わってしまうのかと驚き、また呆れたのでした。

今週の福音朗読に登場する人は、耳が聞こえず舌の回らない人です。大きな障害を抱えて、社会生活に支障をきたしていたことでしょう。ほかにも、障害を罪と結びつけられて、この人が罪を犯したか、この人の先祖が罪を犯したので障害を背負っているのだろうと思われていたかもしれません。

エスはこの人の重荷を取り除いてくださいました。奇跡をおこなって、障害を抱えている本人を救い、また人々にご自分が神のあわれみを確実に与えることのできる方であることを証明したのです。

一つ、興味深いことがあります。イエスが奇跡をおこなったので、その人は「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(7・35)わけですが、イエスが口止めをしたのは奇跡を目撃した人々であって実際にいやされた人ではありませんでした。

似たような場面がマルコ福音書の1章「重い皮膚病を患っている人をいやす」という奇跡があります。ここではいやされた人に「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(1・44)という指示を与えています。

両方は、奇跡の果たす役割が少し違うのかもしれません。重い皮膚病をいやしたときは、その人自身に神の憐れみを示すねらいがあったのでしょう。今回の耳が聞こえず舌の回らない人のいやしは、障害を抱えているその人と、周りの群衆全体に関わる奇跡だったのだと思います。

もちろん今週の出来事でも、奇跡そのものは障害を抱えている本人のためですが、奇跡をおこなったときの言葉「エッファタ」「開け」この言葉は周りにいる群衆にも関わりがあったのだと思います。

エスの言葉は、群衆にどのように関わっていたのでしょうか。イエスの言葉で何が起こったかを考えると見えてくると思います。イエスが「エッファタ」「開け」と言われると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」(7・35)のでした。

これをもとのギリシャ語に近い形で日本語に直すと、「すぐに耳は開かれ、舌の束縛が解かれ、正確に語っていた」となります。どういうことかというと、障害を抱えていた人がイエスの言葉によって神から耳を開いてもらい、舌の束縛を解いてもらい、正確に語れるようになったということです。神が、人の悩みを取り除くことをよく表しています。

まとめるとこういうことではないでしょうか。イエスがだれであるか、奇跡がどのような働きを持っているのか、いやされた人も群衆も理解していません。言葉で正確に語ることのできる人がいません。奇跡を通して、群衆も含め、神から耳を開いてもらい、舌の束縛を解いてもらい、イエスがだれであるかを語れるようになったということです。

ただ、イエスは人々に「だれにもこのことを話してはいけない」と口止めをされました(7・36参照)。人々の驚きの言葉をギリシャ語に近い形で日本語に直すと、「彼はすべてを良くした。耳の聞こえない人々を聞こえるようにし、口のきけない人々を語れるようにした。」これは目の前の働きだけが語られています。やはり、わたしたちだけの力ではイエスがだれであるか、奇跡がどのような働きをするのか、正確には語れないのです。

神は確かに、わたしたちの耳を開いてくださり、舌のもつれを解いてくださり、はっきり話せるようにしてくださいます。その上で、わたしたちが語るときはいつも、イエスの声に耳を傾け、語るべき言葉を授けてくださるように願い、それから語り出す必要があるのです。そうして初めて、わたしたちはイエスの望み通りに語ることができるようになるのだと思います。

エスはわたしたちの重荷を取り除いてくださり、わたしたちを解放してくださる。イエスをわたしたちの言葉ではっきり語ることができるように、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼今週10日(木)から11日(金)まで沖縄に行くことになっている。遅めの夏休みなのだが、単なる旅行ではない。「九州視覚障害者情報提供施設協議会」(九視情協)の年1度の大会が今年は沖縄で開催されるので、「視覚障害者情報提供施設の一員として」大会に参加するということだ。
▼だから観光の予定は特に組んでいないが、1つだけ確かめたいことがある。それはメールマガジン、またはブログの読者の中に、沖縄在住の読者がいるだろうかということだ。たかだか1000人くらいの読者だが、沖縄在住の人がいるのか知りたいと思っている。
▼大会プログラムを見ると初日は午後1時に間に合うように福岡から飛行機で沖縄入りし、夜の懇親会まで目いっぱい予定が入っている。だが2日目は12時で大会が終了し、18時5分の沖縄発福岡行きの飛行機の時間までゆっくりできる。
▼もし、沖縄在住で、メルマガ「こうじ神父今週の説教」または同じ名前のブログの読者がいて、9月11日(金)午後に時間が取れるなら、オフラインミーティングできたら素晴らしい。わたしもさほど社交的な人間ではないけれども、ふだん会うことのない人に会うのは十分意義深いと思っている。
▼もちろん時間の都合がつかなければ、メールでの連絡だけでも嬉しい。あわよくば4時間程度で回れる沖縄の訪問地を教えていただければ、そのお勧めに沿って訪ねてみたいと思っている。10日(木)から11日(金)の宿泊先は、「パシフィックホテル沖縄」。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===