年間第21主日(ヨハネ6:60-69)

年間第21主日B年はヨハネ福音書第6章の最後の部分で、イエスと群衆の一連の対話の結びとなっています。イエスとの対話の中で、多くの人々は離れ去っていくことになります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(6・60)しかしイエスが選んだ十二人はイエスのもとに留まります。離れ去っていく人々とイエスのもとに留まる人々にはどのような違いがあるのでしょうか。

浜串教会の聖櫃が鍵がかからなくなり、取り換える必要が出てきました。鍵の仕組みが特殊なので、鍵を修理するのは難しそうです。現在の浜串教会が建てられたときからの聖櫃なのですが、ご苦労さまでしたとねぎらって、新しい聖櫃に取り換えることにしました。

浦上教会の近くに典礼用品を取り扱っている修道会の店があるので相談に行きました。すぐ手に入る聖櫃は、少人数の聖堂には使えるでしょうが、浜串教会には向いていません。大きな聖堂には、見栄えのする大きさの聖櫃が必要です。

カタログを見ていて、「これがいいかなぁ」と思った聖櫃を見つけたので、取り寄せることができるか尋ねました。「イタリアからの取り寄せです。値段も確認して返事します」ということでした。先週値段を教えてもらいましたが、80万円するそうです。けっこうな値段です。

けれども、問題は値段に見合う価値があるかどうかだと思います。今まで使い続けた聖櫃は約50年働いてくれました。新しい聖櫃も、50年とは言わなくても、40年働いてくれれば、聖櫃を維持する費用は1年に2万円ということになります。十分理解できる金額だと思います。

福音朗読に戻りましょう。イエスの語る言葉は弟子たちにも十分には理解できていないようです。弟子たちの多くが「実にひどい話だ」と拒絶反応を示しました。どんな人も聞く人の言葉に自分の期待する言葉を探そうとすれば失望することが起こりえます。弟子たちも人間です。名誉を欲しがったり利益を欲しがったりする弟子もいたのでしょう。イエスの言葉からは自分たちの欲しいものが手に入らないと見るや、イエスに完全に背を向けてしまいます。

一方で十二人の弟子たちはイエスに踏みとどまります。十二人が踏みとどまるだけの力を備えていたのでしょうか。わたしは十二人の力がそうさせたと言うよりも、いったん自分たちの考えを横に置いたので、イエスの招きに従うことができたのだと考えます。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(6・68-69)イエスの言葉に希望を置くためには、ついつい物差しにしてしまう自分の考えを寛大に横に置くことが第一条件になってきます。

さらに、ついつい取りがちな自分の判断に照らしてイエスを見る態度を横に置くとき、はじめてイエスの中に「命を与える霊」があると理解できるようになります。イエスは神からの命を与えている。この方のあとに付いて行く価値がある。そのことが理解できると、イエスだけに希望を置くことも可能になります。

わたしたちはみな、イエスに招かれている生き方を続けています。なぜこの生き方を続けているか。イエスが命を与えるお方だとどこかで理解したからです。きちんと説明はできなくても、戸惑いながらもついて行けるだけの何かを、どこかでイエスに見つけて、イエスに呼ばれた生き方に自分を留まらせているのです。

何がきっかけで、イエスについて行くだけの理由を見つけるかは分かりません。司祭の中に、これから教区の屋台骨を支えてくれるだろうという方が、余命1年の宣告を受けて、イエスにすべてを委ねて生きる姿を完全に生きて旅立った先輩もいました。余命宣告を受けた後にその先輩司祭とたまたま回転寿司の店でご一緒しましたが、もはや何も恐れていない様子でした。命を与える方がだれであるかを完全に理解すると、いっさいの恐れから自由になります。

わたしたちは、イエスについて行こうと心に決めた何かをつかんでいる者同士です。具体的にこれと気付いている人は、ぜひ分かち合ってください。また、はっきりこれだと分からない人は、それが何だったのか教えていただけるように照らしを願いましょう。あなたがイエスについて行く決心をした理由を知ることで、新しくイエスに従うように導かれる人が現れるかもしれません。

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ちょっとひとやすみ
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▼暑さと寒さ。若い時とそうでないときと、年老いてからと三度変化するのだろうか。わたしは寒さが苦手で冬はどこにも行きたくない、こたつに入って何もしたくないという生活だったが、今は寒くても釣りに行くようになった。手はガチガチ震えているのに、なぜここにいるのだろうと自分に問いかけながら釣りができるようになった。
▼暑さはいくらでもがまんできた。だが暑さが耐えられなくなってきた。思考力は鈍り、暑くて動きたくない、外に出たくない。着る者も少なくて済むから夏が好きだったのに、今はすっかり夏が苦手となってしまった。
▼歳をさらに重ねるとどうなるのだろうか。わたしは病人見舞いに行って、夏でも冬でも、戸が少し開いていることを気にするお年寄りを見て考え込んでしまう。少し風が通るだけで気になるようなのだが、それは敏感になっているのだろうか。
▼敏感になっている割には、部屋の電気が消されていても平気なようである。わたしが部屋に入った時、悪いとは思いながら勝手に部屋の電気をつける。そうでもしないと暗くて儀式書が読めないのである。
▼横道にそれたが、暑さと寒さの入れ替わりは長い人生の中での不思議な体験の一つなのだと思う。長い人生、不思議なことの一つくらいないと楽しみがないか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===