年間第20主日(ヨハネ6:51-58)

ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」(6・52)イエスがご自分の肉を食べさせ、血を飲ませるのは聖体拝領によってですが、ユダヤ人たちには理解できません。ユダヤ人たちの陥った過ちを避けてイエスの肉と血に養われる生き方を追い求めることにしましょう。

わたしたちがある出来事に疑問を持つとき、「答えを知りたい」と思っている時と、「答えが出るはずがない」と疑ってかかっている時と両方あると思います。イエスが、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6・51)と宣言した時、ユダヤ人たちは「自分の肉を我々に食べさせるなど、できるはずがない」と疑ってかかっていたと思います。

ユダヤ人たち」とはイエスに敵対している人々のことですから、初めからイエスに教えてもらおうとか導いてもらおうという気がありません。ですから彼らが激しく議論したといっても、答を探し求めてのことではなくて、敵意を増し加える議論に過ぎなかったのです。

わたしたちは、ユダヤ人が陥った過ちに足を踏み入れてはいけません。ユダヤ人は「イエスが我々に自分の肉を食べさせ、血を飲ませることなどできるはずがない」と考えています。わたしたちは心を開き、「イエスが食べさせる、飲ませると仰ったのだから、きっと叶えてくださるに違いない」そういう考えに立って出来事と向き合うことが必要です。

わたしたちは幸いに、祭壇上でイエスがささげられ、ご聖体となってわたしたちの食べ物、飲み物となってくださることを知っています。ですからイエスがご自分を食べ物として飲み物として与えることは当時の人々のように疑いを持つことはありません。ですが今のわたしたちには、ほかの形でイエスを食べることについて試されていると思います。

たとえばイエスはわたしたちに次のような招きを与えました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16・24-25)

わたしたちはイエスについて行くために、ときには自分の都合を横に置いてイエスに都合を合わせる必要があります。人によってはそれが一時的なことで終わらず、一生涯をイエスの都合に合わせて生きている人もいます。こうした生き方は、本当に報われるのでしょうか。

このような疑問は、イエスの招きを食べ物のように食べるか食べないか、問われているようなものです。イエスの招きがイエスの肉と血であって、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6・54)あなたはどうしますかとイエスは問いかけているわけです。

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従う」この道を選ぶ、食べ物として食べるとは、いろいろある食べ物の中からこの道を選び、食べるという意味ではありません。事の大小はあるかもしれませんが、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従うのは、この選択肢しかないと信じて選ぶ、食べる必要があるのです。

わたしたちがイエスを食べ物としていただくとき、それは「いろいろ選択肢がある中で、イエスを食べ物として食べます」ではなく、「あなたをおいて、ほかにないと思ったので選びました」このような気持ちでイエスに近づく必要があります。

あらためて、わたしたちはご聖体に、どのように近づいているのでしょうか。イエスがわたしたちの食べ物となってくださったのは、少し削って与えているのではありません。いのちを投げ出して食べ物になってくださったのです。そのご聖体を、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」(6・68)そんな思いで受けているでしょうか。

わたしたちの生きる時代は、「イエスがご自分を食べ物として与えることができるかどうか」という疑問は過ぎ去りました。新たに、「イエスは他に代わりのない食べ物か」が問われていると思います。ミサに参加し、ご聖体を拝領して、わたしたちは世に対して「イエスは他に代わりのない食べ物です」と証を立てましょう。

聖体を拝領できない場面もあるかもしれません。それでもミサに参加しているのは、「イエスは他に代わりのない食べ物です」と証を立てているのですから、胸を張ってほしいと思います。

わたしたちカトリック教会には「他に代わることのできない命のパン」があります。ミサに参加する人は、このパンを証しします。イエスというパンを食べることを知らない人に、わたしたちは証しを立て続けましょう。いつかわたしたちを通して、「他に代わることのできない命のパン」に飢え渇く人を見つけるかもしれません。わたしたちの働きは、まことの命のパンに飢え渇く人がいなくなるまで続きます。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼葬儀ミサの侍者に雇った小学生に払うバイト代500円が454円しか手元にない話の続き。これを葬儀ミサの説教に使えないかと考えた。笑い話のようだが、本気で使えないか考え始めた。ミサが始まるまであと10分。前もって用意した材料ではないので一発勝負。それでもこのネタが使えるチャンスはもう二度と廻って来ない。賭けてみようと思った。
▼説教の中心部分は、「わたしたちは自分にも他人にも、完全なものを与えることができない。だが神は違う。神が、『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう』(マタイ11・28)と約束されたのなら、完全な休みを、憩いを与えてくださる」という内容だ。
▼説教の掴みとして、「葬儀ミサの参列者の中に地元の小学生が見えたので、侍者に来なさい、バイト代500円上げるからと約束したのですが、わたしの財布には454円しかありませんでした。それでその454円を封筒に包んで渡しました。今日は約束より少ない額で侍者を務めております」と前置きした。
▼「人は約束しても、約束通りのものを与えられないことがしばしばあるものです。わたしがそうでした。また参列者の皆さんも、旅立って行く故人に『これだけのことをしてあげたい』と思い描いていたこともあるでしょう。ですがその結果は、完全には果たせなかったのではないでしょうか。」
▼「人間は約束を完全に果たせませんが、神は完全に約束を果たします。そしてその神を、故人は信じて生き、旅立ったのです。わたしたちも、この世を旅立つ故人に倣って、信じてきた神が、いま約束を完全に果たしてくださるとの信頼を寄せましょう。」だいたいこのような内容の説教をした。
▼説教と葬儀ミサは故人や遺族にとって体を持っている時の最後の祈りの場となる。その葬儀ミサの説教なのだから、何か遺族の心に響く話をしてあげたいし、参列者にも思い出すきっかけとなる説教をしたいと思っている。そういう中での今回の説教なのだが、ご批判があれば甘んじて受けるつもりである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===