聖母の被昇天(ルカ1:39-56)

聖母の被昇天の祭日、福音朗読個所からマリアの賛歌の次の言葉に注目したいと思います。それは「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし」(1・52-53)という言葉です。

今年は特別に暑い夏だと感じます。去年まではどんなに暑くても釣りに行っていたのですが、今年はさあ行くぞと決めた後に「やっぱりやめようかな」と思うくらいです。

ボートに乗っていて帰って来ることができるか心配したことなどかつて一度もありませんでしたが、今年はそんな不安がふと頭をよぎります。暑い中もし熱中症になり、連絡も取れずに漂流したら、多大な迷惑をかけることになるなぁと、怖くなることがあります。

早く、今年の異常に暑い夏が過ぎてほしいものです。今年は聖母被昇天の祭日が「これで確実に8月も半ばまで来た。あと半分だ」と感じさせ、ありがたい気持ちになりました。

さて全世界の教会が祝っている通り、マリアは体も魂も、天の栄光に上げられたお方です。マリアはその振る舞いも言葉も、天の栄光に上げられるにふさわしいお方でした。わたしはさらに、神の注がれる目を捉える力も、天の栄光に上げられるにふさわしいお方だったと思います。主なる神を「身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たすお方」と捉えたのは、画期的だったと思うのです。

世の中の多くの人は、権力ある者や富める者に目が行きがちです。小さく貧しい人、しいたげられている人を見ようとしないのです。ところが神である主は、身分の低い者、飢えた者に目を留め、憐れみを忘れない方なのです。マリアは、人々が見ようとしない部分に主なる神が目を注ぐことをいち早く見抜いた方だったのです。

マリアが見抜いた主のまなざしから、2つのことを考えました。1つは、身分の低い者、飢えた人を神は決して放ってはおかないということ、もう1つは、わたしたちもマリアが見抜いた神のまなざしを人々に知らせるべきであるということです。

弱い立場に置かれている人を神が決して忘れないのであれば、マリアの言葉は多くの人の希望の言葉となります。マリアが体験したことでありながら、希望のないまま生きてきた多くの人を代表する神への賛美にもなっています。だれも見抜けなかった神のまなざしをマリアが見抜いたことで、身分の低い者、飢えた人が救われることになりました。

マリアが鋭く見抜いた神のまなざしは、人々に知らせるべき「喜びの知らせ」でもあります。身分の低い者、飢えた人に神が憐れみを注がれる。このメッセージはどんな知識や能力でも知りえなかったのです。そしてわたしたちの神がどのような方であるかを、どんな弱い立場の人でも正しく知らせることのできるメッセージです。このメッセージを知らせる人には必ず報いがあるでしょう。マリアはこのように賛美して最後には体も魂も天に上げられました。わたしたちもマリアの賛歌を告げ知らせるなら、神に招かれるはずです。

天に上げられたマリアは、だれも見抜くことのできなかった神のまなざしをわたしたちに示してくださいました。神のまなざしを、わたしたちもよく黙想し、自分のものとしましょう。人々に告げ知らせ、神のまなざしに心を開く人がこの世界にもっと現れるように、マリアの取り次ぎを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼10日ほど前に病者の塗油を授けた福見の老婦人が火曜日に亡くなり、水曜日通夜、木曜日葬儀ミサを済ませた。ここ数年特養の「福見の園」に入所していた方だった。もともとの出身は高井旅の人で、旧姓は高井旅に多い姓だった。
▼葬儀ミサに参列する中に、小学生のいる福見の家族が出席していた。「これは幸い。侍者をお願いしよう」と思い立ち、会衆席に座っているその小学生にミサの30分くらい前に声をかけに行った。
▼小学生は自分に声がかかるのを予感していたのか、手を振って自分はここにいると合図をしている。「今日の葬式のミサで、侍者をしてくれる?バイト代を・・・」わたしは葬式と結婚式の侍者をしてくれた時はバイト代を出すことにしている。それで侍者のお願いと合わせてバイト代を払うと言おうとしたのだが、その声は意外なことでさえぎられた。
▼「神父さま、バイト代もらえるんですよね。」わたしが言いかけたことを、小学生に先に言われてしまった。「う、うん。もちろんだよ。バイト代は500円ね。」先に言われて動揺したが、いずれにしても払うのだから、どちらが先に確認しても問題はない。「10分前になったら侍者服に着替えなさい。」そう伝えてわたしも香部屋に向かった。
▼侍者の小学生には確実にバイト代をあげたい。そこで念のため財布を確認した。財布を開いて驚いた。ぱっと見たところ500円硬貨がない。念のため硬貨を全部取り出して数えたが、454円しかないではないか。
▼これは困った。お札もこの日に限って5千円札しか入っていない。だれかに100円借りれば500円になりはするが、それも恥ずかしい。常設している献金箱を開けばお金があるかもしれないが、葬儀ミサの前にふさわしくない。ミサの開始が迫っている。どうすればよいか。そこで妙案を思い付いた。次回に続く。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===